此華天女
   * * *


 雁を連れて桜桃と小環は寮へ向けて走りつづける。いまにも飲み込まれそうな暗闇に、雁が編み出した蛍のような明かりを浮かべ、先導させて、後を追う。
 大地が揺れる。土が膨れ上がり、地面に這っていた枯草が息を吹き返したかのように鎌首をもたげ、桜桃の足元へ絡みつく。

「えっ?」
「桜桃!」

 瞬息。ぱっくりと地面が割れ、桜桃の身体が吸い込まれていく。小環は救いを求めて宙を流離う彼女の手を掴もうとするが、届かない。

「そんな」

 雁は揺れつづける大地に慄然し、引き裂かれた小環と桜桃を見つめ、嘆く。

「もはや、手遅れだというのですか……?」

 事態を静観していた神々が、ついに天神の娘の身を欲したのだと雁は本能的に感じ、身体を震わせる。
 鳴動をつづける大地を前に、小環は畜生と毒づきながら、身を翻す。

「篁さん、何を……!」
「桜桃を追う」
「でも、彼女は」
「天女を生贄に求めるほど、神々は狂っているわけじゃないだろ? 邪悪なものに魅せられているのは、神々を利用した伊妻だ。神々が桜桃を必要としているのなら、俺もまた、それに従うまでだ」

〈そのとおり、早くおいで〉

「っ!」

 ぴっ、と鋭い声が雷鳴のように降り注ぐ。雁と小環は視線を交錯させ、声の主が見知った人物であることを確認する。

「逆さ斎……あなたなのね」
〈そうだよ『雪』の乙女。君はボクを識っているんだね〉
「……ええ、でも、なぜ」
「それより逆井! 桜桃をどうした!」
〈おお怖い怖い。手荒な真似はさせたくなかったんだけどね……ボクの腕の中にいるよ〉
「無事なんだな」
〈もちろん。君だってわかっていて訊いているんだろ?〉
「まあな。俺もいまからそっちに向かう」
〈辿りつけるかな?〉

 挑発するように四季の声が木霊する。小環はその声を無視して天と地の狭間に開いた空間を見下ろす。深夜だというのに、向こう側の世界は澄み切った青空が海のようになみなみと注がれている。

「桜桃だけ攫っても、春は呼べないからな」

 天神の娘と始祖神の末裔は心を通じ合わせたふたりが揃った状態でなければ春を呼べない。半神だった始祖神を、至高神が補ってくれたように、小環は天神の娘である桜桃を補う存在になろうとしているのだ。

「寒河江雁。君はここで待っててくれ」

 そう言って、小環は亀裂のなかへ自ら飛び込んでいく。

〈心配しなくてもふたりは朝には戻るよ、『雪』の乙女〉
「逆さ斎? あなた、まさか……」

 雁は四季からの囁きを受けて、言葉を濁す。
 四季がいる場所は神謡に詠われた約束の地。
 そこは寿命を迎えたカイムの民の魂が集い、循環の輪を回す歯車のあるところ。
 すなわち界夢。
 生粋の民なら誰もが知っている知識だ。その地へ辿りつけるのは死を神に宣告されたものだけで……生きている人間がけして踏み込んではいけない領域。踏み込んだものは二度と戻れない、禁断の地。だというのに。

〈鋭いね。禁術を発動している〉
「そんなことしたら、出られないじゃない!」
〈もとよりそのつもりだから心配しないで。あとのことは天神の娘と始祖神の末裔に任せて隠居するだけだから〉

 まるで老人みたいだな、とけらけら自嘲する四季が、まるで目の前にいるように見える。

「……知らないわ」

 両手で耳を塞ぐ雁。けれど、四季の言葉は遮れない。

〈ボクのことは忘れるんだ、いいね……朝になったら、忘れるんだよ、狩〉

 泣きたいほどやさしい声音が雁に届く。
 ふたつ名で簡単に縛られてしまう自分がもどかしい。

「忘れるものですか! もう、ちからあるひとたちの暗示なんかに従わないんだから!」

 そう撥ね退けても、四季の言葉は雁の心臓を抉っていく。
 そんな雁を気にすることなく四季はふだんどおり淡々とつづけていく。

〈まずは少し先で立ちすくんでるボクの式神を回収してもらおうかな。そしたら救護室で桂也乃たちと合流して。そこで朝まで休めばいいよ〉
「……ひとの話、きいてないわね」

 呆れながら雁は頷く。最終的には四季に言われたとおりに動かざるおえないのだろう。

〈伊妻の件には関わるな。彼女は魂の在り処を邪神に明け渡している。きみもわかるだろう? 桂也乃が刺されたんだ〉
「……皇一族の、始祖神の血が流れたのね」
〈彼女は帝都に伊妻の残党が慈雨であることを手紙で伝えていたんだ。彼女はそれを知って桂也乃を害した。けど、もう歯車は動き出している。帝都から追手が来る。それですべては終わる〉

 慈雨のことを指摘され、雁は黙り込む。同室で学校生活を共にした慈雨は、自分をふたつ名で操り天神の娘を害そうとした慈雨は、すでにカイムの神々に見放されている。邪神を浄化しても、慈雨は戻らない。そう、四季は暗に告げたのだ。

「……わかったわ」

 彼女を救うことはできない。皇一族に属する桂也乃を害したのが伊妻の生き残りである慈雨だと、知れ渡ってしまったから。いままで革命の刻を待ち隠れていた彼女は、皇一族によって裁きを受けることになるだろう。そして彼女を間違った形で愛してしまった『雨』の長と、彼に従う人間も……
 雁は頷き、古語を唱える。

「Chiepunkinere〈守護を〉」

 四季の声は消えた。雁はすくっと立ち上がり、夜空を見上げる。薄い紗のような雲が、月を隠しきれずにいる。吉兆だ。
 雁が何もしなくても伊妻の残党は捕えられ、カイムの地には春が来る。
 朝になれば、雁は四季を忘れて春の悦びに胸を詰まらせているのだろう。

 ふいに思い出す。自分の祖父が教えてくれた、神皇帝のことを。『雪』の部族の娘である少女を即位前に娶り、篁という姓を与え、生涯愛し続けたこの国の覇王。彼は、天神の娘の祖とされる至高神も自分たちの祖神として認めていた。
 その縁者である篁小環もまた、始祖神の末裔でありながら、天神の娘に惹かれているようだ。逆さ斎はそこまで見越して、自らの魂を界夢に封じ、いまにも零れ落ちそうな桂也乃の生命を救うことを選んだのだろう。春を呼ぶのを天女たちに任せて。
 四季の言葉を信じて待つことしか雁にはできない。カイムの民が詠唱する春の賛歌を口ずさみながら、雁は亀裂から背を向ける。
 そして訣別の言葉を添えて。歩きだす。

「――さよなら、逆さ斎」


 すべては明日。決着がつく。
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