此華天女
第七章 天女、降臨
どこまでもつづく青い、蒼い、碧い世界。
白雲の向こうに佇むのは、湖水だろうか天空だろうか。小環は奇妙な浮遊感に身を委ねたまま四季たちの場所へ急ぐ。
ときどきすれ違うのは懐かしいひとたち。小環の母、蛍子は少女のような笑みを浮かべて彼を見送ってくれる。異母兄の湾の生母、篁八重がカイムの古語を口ずさんでいる姿も見える。ここは死後の世界なのだろうか。だとしたら、小環に呼びかけてくれた巫女装束の女性はきっと、桜桃の母、セツなのだろう。
〈天と地を結ぶ始祖神の末裔(すえ)よ、至高神に愛されし娘を娶りて春の栄華を咲かすのじゃ〉
しゃらん、と錫杖が鳴り響き、小環の視界が反転する。あおかった世界に藍色が重なり、一瞬で色彩が奪われる。
目の前が白と黒に、占領された。
「死んでまであたくしの邪魔をするなんて、愚かな女」
銀白のような髪を腰まで垂らし、緋袴に純白の袿を纏う女性の姿もまた、変貌を遂げていた。
あおい世界はしろい世界へ。まるで、冬の最中の雪原のような寒々しさ。そこに降り立っていたのは、見知った少女。
「……梧」
黒く見えたのは濃紺のボレロだった。慈雨は小環を見つけるとにやりと嗤う。
突然現れた慈雨に、小環は驚きを隠せない。
「いま、春を呼んでもらっては困るのよ。ようやく皇一族の人間をひとり、葬れたっていうのに」
「彼女をどうした」
「刺しただけよ? すぐに死んだらつまらないからあえて急所は外したけど、もう助からないでしょうね。ほら見て? あそこにいるじゃない」
慈雨が指で示した先には、淡い撫子色の西洋服を纏った桂也乃の姿があった。まるで異国の結婚装束のようにも見える。けれど、愛らしい花のような装いをしている彼女の表情は、能面のようにまっさらで、小環の知る彼女ではない。
「おい、黒多! こんなところで何やってるんだよ? 戻って来い!」
小環の声は桂也乃に届かず、桂也乃の姿は煙のように消えてしまう。
「無駄よ。カイムの術者でも戻るのが難しいこの界夢に彷徨いこんだ時点で、彼女の魂はもう、ここにはないわ」
「莫迦な。じゃあお前はなぜここで平然としていられるんだ」
見てきたものと、慈雨の話から、ここが死者の魂が集う界夢という異空間であると小環は認識した。そして術者である四季のおかげで自分と桜桃はこの場所にいられるということも。
「だって、あたくしはもう、魂を渡しちゃったんですもの」
うふふ、とほくそ笑みながら、慈雨は小環の前から姿を消す。まるで亡霊のように。
「梧!」
「――伊妻よ。小環皇子」
くすくす、くすくすとさざ波のように巻き起こる慈雨の嘲笑が、小環の鼓膜を浸食していく。
「やはり俺のことを、知っていたか」
「そしてあなたも、あたくしのことを黙っていながらあの女に探らせていた……でも、潮時ね。明日、春はあなたではなく『雷(イメラッ)』の王によって呼ばれることになるわ」
「――『雷』の王?」
その問いかけには応えず、慈雨の声は一方的に宣言する。
天神の娘は伊妻がいただいていくわ。
慈雨の笑い声はまだ続いている。けれど、姿を見ることのできない小環は彼女を捕まえることもできない。不穏な言葉だけが、いつまでも小環を捕えて離さない。
「どういうことだ?」
慈雨の言動は気になるが、それよりも早く桜桃を探さねば。小環は強引に気持ちを切り替えて、白と黒の世界から一歩、足を踏み出していく。
その姿を、慈雨がじっと見つめていることにも気づかずに。
白雲の向こうに佇むのは、湖水だろうか天空だろうか。小環は奇妙な浮遊感に身を委ねたまま四季たちの場所へ急ぐ。
ときどきすれ違うのは懐かしいひとたち。小環の母、蛍子は少女のような笑みを浮かべて彼を見送ってくれる。異母兄の湾の生母、篁八重がカイムの古語を口ずさんでいる姿も見える。ここは死後の世界なのだろうか。だとしたら、小環に呼びかけてくれた巫女装束の女性はきっと、桜桃の母、セツなのだろう。
〈天と地を結ぶ始祖神の末裔(すえ)よ、至高神に愛されし娘を娶りて春の栄華を咲かすのじゃ〉
しゃらん、と錫杖が鳴り響き、小環の視界が反転する。あおかった世界に藍色が重なり、一瞬で色彩が奪われる。
目の前が白と黒に、占領された。
「死んでまであたくしの邪魔をするなんて、愚かな女」
銀白のような髪を腰まで垂らし、緋袴に純白の袿を纏う女性の姿もまた、変貌を遂げていた。
あおい世界はしろい世界へ。まるで、冬の最中の雪原のような寒々しさ。そこに降り立っていたのは、見知った少女。
「……梧」
黒く見えたのは濃紺のボレロだった。慈雨は小環を見つけるとにやりと嗤う。
突然現れた慈雨に、小環は驚きを隠せない。
「いま、春を呼んでもらっては困るのよ。ようやく皇一族の人間をひとり、葬れたっていうのに」
「彼女をどうした」
「刺しただけよ? すぐに死んだらつまらないからあえて急所は外したけど、もう助からないでしょうね。ほら見て? あそこにいるじゃない」
慈雨が指で示した先には、淡い撫子色の西洋服を纏った桂也乃の姿があった。まるで異国の結婚装束のようにも見える。けれど、愛らしい花のような装いをしている彼女の表情は、能面のようにまっさらで、小環の知る彼女ではない。
「おい、黒多! こんなところで何やってるんだよ? 戻って来い!」
小環の声は桂也乃に届かず、桂也乃の姿は煙のように消えてしまう。
「無駄よ。カイムの術者でも戻るのが難しいこの界夢に彷徨いこんだ時点で、彼女の魂はもう、ここにはないわ」
「莫迦な。じゃあお前はなぜここで平然としていられるんだ」
見てきたものと、慈雨の話から、ここが死者の魂が集う界夢という異空間であると小環は認識した。そして術者である四季のおかげで自分と桜桃はこの場所にいられるということも。
「だって、あたくしはもう、魂を渡しちゃったんですもの」
うふふ、とほくそ笑みながら、慈雨は小環の前から姿を消す。まるで亡霊のように。
「梧!」
「――伊妻よ。小環皇子」
くすくす、くすくすとさざ波のように巻き起こる慈雨の嘲笑が、小環の鼓膜を浸食していく。
「やはり俺のことを、知っていたか」
「そしてあなたも、あたくしのことを黙っていながらあの女に探らせていた……でも、潮時ね。明日、春はあなたではなく『雷(イメラッ)』の王によって呼ばれることになるわ」
「――『雷』の王?」
その問いかけには応えず、慈雨の声は一方的に宣言する。
天神の娘は伊妻がいただいていくわ。
慈雨の笑い声はまだ続いている。けれど、姿を見ることのできない小環は彼女を捕まえることもできない。不穏な言葉だけが、いつまでも小環を捕えて離さない。
「どういうことだ?」
慈雨の言動は気になるが、それよりも早く桜桃を探さねば。小環は強引に気持ちを切り替えて、白と黒の世界から一歩、足を踏み出していく。
その姿を、慈雨がじっと見つめていることにも気づかずに。