此華天女
「ちょっと手荒だったかな。まあ彼なら大丈夫だろう。それより『雷』の王ね……君はそこまで識っていたのかい? 桂也乃」
小環の気配が消えたのを見送るように、西洋服姿の桂也乃が四季の前に現れる。閉じられたままの彼女の瞳に四季が手を翳すと、夜空を思わせる藍色に近い黒の双眸が四季の前へ顕現する。
「きみの魂ならボクが回収したよ。戻るんだ。きみを待つ大切なひとたちのいる世界に」
桂也乃の瞳からは透明な涙が溢れている。四季は彼女の前に跪き、落ちてきた雫を自らの手のひらで受け取り、やさしく言葉を紡ぐ。
「きみにしかできないことをやり遂げるんだよ。まだ、きみはこの世界に来ちゃいけない。ボクのことは忘れるんだ」
帝都出身の桂也乃にふたつ名はない。だから四季が名前で縛って自分のことを忘れさせることはできないけれど、忘れさせる暗示をかけることならできる。ほんとうなら、覚えていてほしい。でも、自分のせいで桂也乃がいつまでも罪の意識を感じる姿は見たくない。
桂也乃は首を横に振り、四季のことを忘れたくないと泣きじゃくる。
「さよならだよ、桂也乃」
四季は子どもを宥めるように桂也乃を抱きしめ、おとなのように、舌を絡める接吻をする。
桂也乃が驚いた顔をして、四季に手を出そうとした瞬間、天に開いた漆黒の闇は黄金色に染め上げられ、桂也乃の姿がかき消える。
夜明けだ。
四季は頷き、白い大地に大の字になる。
「桂也乃の平手、届かなかったな……」
くすくす笑って、四季は訪れた睡魔を素直に受け入れる。次に目覚めるときはきっと。
――何も覚えていない。
* * *
寒椿の花が咲き乱れる女学校の片隅で、小環は意識を取り戻す。いままでまともに顔を見ることのできなかった太陽が、青々とした空の上で燦々と輝いている。
「……っ」
いままでの出来事は夢だったのだろうか。冷たい大地を溶かしていくように、太陽の熱が小環に注がれていく。
昨日の夜からどのくらい時間が経ったのだろう。太陽の位置を見ると、すでに昼近いのかもしれない。
「――桜桃」
慈雨に攫われた桜桃を想い、小環の心がびくりと震える。天女としてのちからを界夢の神々によって与えられた彼女は、慈雨によって再び封じられてしまった。天女と春を呼ぶのは小環ではなく『雷』の王なのだと言って。
「あ、いたいた。篁さん!」
「……寒河江雁?」
呆然としていた小環のもとに、息を切らしながら走ってくる見知った人物の声が届く。雁は小環の姿を見つけると有無を言わさぬ口調で説明をはじめ、懇願する。
「きいて! ついさっき、黒多さんの意識が戻ったの! すぐ、また、眠っちゃったんだけど……あなたに、伝えたいこと、あるって」
ひゅう、と息を吸い込みながら、雁は小環に桂也乃からの伝言を受け渡す。
「慈雨、が、言ってた、『雷』の、王の、正体は……ゆ」
ガラガラガラガラガラガラ。
雁の言葉を踏みつぶすようなおおきな音が、近づき、ふたりは顔を見合わせる。
真っ黒な無印の馬車が、校門の前で止まり、門扉が開かれ、招かれた客人の足音が響き渡る。濃紺のボレロを着た少女と、彼女と並んで歩く初老の男性の姿。慈雨と種光だ。
その後ろを悠々と進んでいく黝い軍服姿の長身の青年と、彼に横抱きにされた白い装いの儚げな少女。
小環は信じられないと息をのむ。レエスがふんだんに施された純白の西洋服を纏っていたのは、間違いない。桜桃だ。そして、彼女を大切に抱きかかえているのは――……
小環の気配が消えたのを見送るように、西洋服姿の桂也乃が四季の前に現れる。閉じられたままの彼女の瞳に四季が手を翳すと、夜空を思わせる藍色に近い黒の双眸が四季の前へ顕現する。
「きみの魂ならボクが回収したよ。戻るんだ。きみを待つ大切なひとたちのいる世界に」
桂也乃の瞳からは透明な涙が溢れている。四季は彼女の前に跪き、落ちてきた雫を自らの手のひらで受け取り、やさしく言葉を紡ぐ。
「きみにしかできないことをやり遂げるんだよ。まだ、きみはこの世界に来ちゃいけない。ボクのことは忘れるんだ」
帝都出身の桂也乃にふたつ名はない。だから四季が名前で縛って自分のことを忘れさせることはできないけれど、忘れさせる暗示をかけることならできる。ほんとうなら、覚えていてほしい。でも、自分のせいで桂也乃がいつまでも罪の意識を感じる姿は見たくない。
桂也乃は首を横に振り、四季のことを忘れたくないと泣きじゃくる。
「さよならだよ、桂也乃」
四季は子どもを宥めるように桂也乃を抱きしめ、おとなのように、舌を絡める接吻をする。
桂也乃が驚いた顔をして、四季に手を出そうとした瞬間、天に開いた漆黒の闇は黄金色に染め上げられ、桂也乃の姿がかき消える。
夜明けだ。
四季は頷き、白い大地に大の字になる。
「桂也乃の平手、届かなかったな……」
くすくす笑って、四季は訪れた睡魔を素直に受け入れる。次に目覚めるときはきっと。
――何も覚えていない。
* * *
寒椿の花が咲き乱れる女学校の片隅で、小環は意識を取り戻す。いままでまともに顔を見ることのできなかった太陽が、青々とした空の上で燦々と輝いている。
「……っ」
いままでの出来事は夢だったのだろうか。冷たい大地を溶かしていくように、太陽の熱が小環に注がれていく。
昨日の夜からどのくらい時間が経ったのだろう。太陽の位置を見ると、すでに昼近いのかもしれない。
「――桜桃」
慈雨に攫われた桜桃を想い、小環の心がびくりと震える。天女としてのちからを界夢の神々によって与えられた彼女は、慈雨によって再び封じられてしまった。天女と春を呼ぶのは小環ではなく『雷』の王なのだと言って。
「あ、いたいた。篁さん!」
「……寒河江雁?」
呆然としていた小環のもとに、息を切らしながら走ってくる見知った人物の声が届く。雁は小環の姿を見つけると有無を言わさぬ口調で説明をはじめ、懇願する。
「きいて! ついさっき、黒多さんの意識が戻ったの! すぐ、また、眠っちゃったんだけど……あなたに、伝えたいこと、あるって」
ひゅう、と息を吸い込みながら、雁は小環に桂也乃からの伝言を受け渡す。
「慈雨、が、言ってた、『雷』の、王の、正体は……ゆ」
ガラガラガラガラガラガラ。
雁の言葉を踏みつぶすようなおおきな音が、近づき、ふたりは顔を見合わせる。
真っ黒な無印の馬車が、校門の前で止まり、門扉が開かれ、招かれた客人の足音が響き渡る。濃紺のボレロを着た少女と、彼女と並んで歩く初老の男性の姿。慈雨と種光だ。
その後ろを悠々と進んでいく黝い軍服姿の長身の青年と、彼に横抱きにされた白い装いの儚げな少女。
小環は信じられないと息をのむ。レエスがふんだんに施された純白の西洋服を纏っていたのは、間違いない。桜桃だ。そして、彼女を大切に抱きかかえているのは――……