お姉ちゃん
2
教室のドアを潜ると、木目の匂いと一緒に混じってクラスメイト達のバカっぽい笑い声が飛び掛ってくる。
わたしは耳を塞ぎたい気持ちを我慢しながら、すたすたと自分の席へ歩いていく。
途中ちらりと目があった綾川さんが微笑んだので、わたしは顎を引く程度に会釈した。
綾川さんと話していた子達がこちらをちらちら見ながら、何やらひそひそ話しているのが聞こえる。
ああ、話の内容は気にもならないけれど、願わくばどうかどうか、面倒なことだけはやめてほしいと思う。
わたしは窓際の自分の席に座ると、鞄から読みかけの文庫本を取り出し、しおりを挟んだページをぱらりと開き、前後の文章を読み直して記憶を辿る。ああそうだ、たしか主人公の男の子が迷い込んだ森の中で、妖精の女の子に出会ったところで……――
「おはよう、東(あづま)」
――頭の中に情景がありありと浮かんできた途端、現実世界からの声にその情景はすぅっとかき消された。
本から視線を外して顔を上げると、長瀬くんはヒマワリが咲いたみたいな明るい笑顔をこちらに向けて笑っていた。
わたしはそれを一目見てから、またすぐに視線を本に戻す。申し訳程度に小さな声で、「おはよう」とだけ返しておいた。
また教室中からひそひそと、何だか今度は明確な敵意まで混じった声がわたしの方向に向かって飛んでくる。
……あぁ、めんどくさい、めんどくさい。
お願いだから、こういうめんどくさいことになるくらいなら、どうかわたしに関わらないで。
長瀬くんはサッカー部のエースで、勉強が出来て、顔だってなかなかよくて、おまけに優しくて人付き合いも得意そうな、まるでお姉ちゃんみたいに、何か物語の主人公みたいな男の子。
そんな男の子だから当然、クラスの中でも彼のことを好きだなんだっていう女子の噂もそこかしこから聞こえてくる。
わたしはと言えば昨日の今日まで、彼にこれといって興味があるわけではなかった。確かに他の男の子と比べても、頭ひとつ飛びぬけている程度にはモテるんだろうなぁって思う要素はあるけれど、わたしにとってはそれだけの、ただそれだけの男の子だった。
なのに、何故。何故か、その長瀬くんに、わたしは、昨日、放課後の、帰り道で。
「返事、考えてくれたかな」
わたしは手に持った文庫本をばたんと閉じ、キっと睨み付ける様な目で長瀬くんの顔を見た。
彼の言葉を耳ざとく拾った連中の声で、ざわざわと教室中がざわめき立つ。
ああ、そうかい長瀬くん。きみは、こういう風に空気を読めない男の子だったかい。
わたしの引きつった頬の辺りを見下ろしながら、長瀬くんはきょとんとした顔で首を傾げた。
その頬の辺りがほんのりと赤く染まっているのが、今はもう何だか、引っ叩きたくなるくらいに小憎らしい。