こんなにも美しい世界で、また君に出会えたということ。
45.僕は君を……
 その言葉を聞いた朝陽は、紫乃を背負ったまま走り出す。わたあめを持った、浴衣を着た様々な人たちの間を、ただ真っ直ぐに走り抜けた。

 そして山の方へと進路を変え、ひたすらに走る。途中、つまずいて転びそうになるが、なんとか踏ん張りそれでも走った。

 起きているのが辛いのか、彼女は大きく息を吸って吐き出す。消えそうな魂の灯火を少しでも繋ぎ止めるかのように、紫乃は大きく呼吸した。

 朝陽のひたいからは汗が噴き出し始める。夜といっても、夏の夜は生暖かい。普段から吹奏楽部で鍛えている珠樹ならいざ知らず、何も運動をしていない朝陽にとっては、女の子を背負って走り続けるのには限度がある。

 その限界はあっけないほどすぐにやってきて、威勢の良かった両足はだんだんとスピードを落としていった。

「朝陽くん、無理しないで……」
「無理、しないと……! だって僕はまだ、紫乃との約束を守れてないんだからっ」
「約束……?」

 朝陽は十年前の出来事を思い返す。きっと紫乃も同じことを思い返していたのだろう。

「病気が治ったら、一緒にいろんなものを見に行こうって……紫乃が行きたいって言ったところなら、どこへだって連れて行くって言ったよね……! 紫乃が行きたいって言うなら、僕は足を止めたらダメなんだっ」

 疲労する足に鞭を打って、無理やりにでも前へと進む。紫乃は、小さく呟いた。

「朝陽くん……紫乃はね……本当は……」

 言いかけた言葉は、不自然な部分で途切れてしまう。彼女がその言葉を、無理やり飲み込んでしまったからだ。

「ううん。やっぱり、なんでもない……」
「話したいことがあったら、ちゃんと話してよ。僕はもっと、紫乃のことを知りたいんだから……!」
「ほんとに、いいの……」

 紫乃はいったい何を伝えたかったのか。何を知ってほしかったのか。その答えを、朝陽は知ることができなかった。そこまでひた隠しにすることならば、問いただしてもきっと教えてくれない。
彼女は昔から、そう言う人なのだから。

 朝陽はなおも、傾斜を登る足を動かし続ける。

 しかし、ピタリと足を止めてしまう。もう、限界が近かった。強く息を吐き出しては、酸素を求めて再び息を吸う。

「……最近ね、ようやく朝陽くんが教えてくれた言葉の意味がわかってきたの……」
「僕が、教えたこと……?」
「いちばん大切なものは、目には見えない……」

 それは十年前、彼女に読み聞かせた絵本に出てくる言葉だ。

「大切なものは、形に残るものなんかじゃなくて、紫乃の心に残っている朝陽くんとの思い出……それは目を閉じて、心の目で見なくちゃいけないの。心の目で見なきゃ、本当に大切なものは見つからない……」
「心の目……」

 朝陽はそのフレーズを繰り返す。

「朝陽くんが本当に伝えたかったのは、たぶんそういうこと……だけど紫乃は、それを別の意味で受け取った……可愛い子犬も、一面に広がった青い海も、道に咲いているお花も見ることができなかった紫乃は……まだ子どもだった紫乃は、あの言葉を文字通り、そのまま受け取ったの……世界は、美しいものに溢れているって……」

 だから彼女は、あの言葉を聞いたときに涙を流した。小さな部屋の外には、宝箱の中には大切なものが詰まっているということを知ったから。

「だからね、朝陽くんは、開かないはずだった宝箱の鍵を開けてくれた……怖いものだと思い込んでいた宝箱の中身は、外の世界はこんなにも美しくて、大切なものだということを、教えてくれたの……」

 本当にありがとう。

 もう一度、彼女は感謝の言葉を呟いた。

 朝陽はきっと、一人の女の子の人生を丸ごと救ってしまったのだろう。あの瞬間から、彼女の人生は朝陽の教えた言葉が中心となって回り出したのだ。

 それが本当に正しいことだったのか、朝陽にはわからない。紫乃が外の世界に興味を持たなければ、ずっと家の中で暮らしている少女であれば、交通事故などという結果は生まれなかったのだ。

 しかしそれでも彼女は、朝陽に感謝をしていた。

「紫乃と出会ってくれて、本当にありがとう……朝陽くんのおかげで、紫乃は幸せに暮らすことができたの……それだけを、最後に伝えたかった……」

 何が正しいことだったのか、もちろん朝陽にはわからない。

 これは、この選択は正しくはないのかもしれないけれど、しかし決して間違いなんかじゃない。

 彼女は、自分と出会えて幸せだったと言ってくれた。それは朝陽も同じことだ。紫乃と出会えていなかった人生なんて考えられない。

 たとえ数年そのことを忘れていたとしても、二人はまた出会い、幸福な瞬間を掴み取ることができたのだから。

 あったかもしれない未来に想いを馳せるのは、全く無意味なことだ。今まで選んできたこの時が、朝陽にとっての唯一なのだから。もしもの世界などは、存在しない。

 だから選んだことに後悔するのではなく、選んだことを受け入れなければいけないのだ。

 瞬間、遠くの空で爆発音が鳴り響く。

 辺りを虹色の光が包み込み、朝陽と紫乃のことを照らし出す。

 花火だ。

 夏の夜空に、花火が打ち上がったのだ。

 ここからでは、木々が邪魔をして花火を見ることは出来ない。

 だから朝陽は再び足を踏み出し、前に進んだ。

 約束を、守らなければいけない。紫乃の世界を丸ごと変えてしまった責任を、朝陽は果たさなければいけない。

 せめてこの夢のような現実が覚めるその瞬間まで、彼女の瞳には美しいものだけが映るようにと祈って、ただ前に進む。

 そして、たどり着いた。

 その開けた場所からは、町の全てを見渡せることができる。その日、その瞬間、その町では、多くの人が同じ方角を見て、目を輝かせているのだろう。

 真っ暗な夜空に、弾けるように色とりどりの火花が散っている。それはまるで、町全体を明るく照らし出しているようにも見えた。

「ねぇ、紫乃……」

 朝陽は呟く。

「空を見て。すごく、すごく綺麗なんだ」

 また花火が打ち上がり、笛の音が鳴り響く。そして輝く花が咲き誇り、遅れて爆発音が耳に届く。その音の盛大さに、心臓がどくんと跳ねた。

 紫乃もその美しさに目を奪われたのか、朝陽の背中に背負われながら感嘆の息を漏らす。

「綺麗……」
「あぁ、綺麗だ……」

 黄色い花火、赤い花火、青い花火。とどまることなく、暗い夜空を塗り替えて行く。それは世界の美しさを表したかのような美麗さを持つが、十秒も経たないうちに消えてなくなってしまう。

 一瞬の儚さ。しかしそれでも、観客を飽きさせることなく次々と花火は打ち上がる。

 その美しい光景を見ながら、朝陽はポツリと呟いた。

「ごめん、紫乃……」

 涙が、溢れた。

「僕は君を、救うことができない……」

 それは最初から分かっていたのかもしれない。ただ、認めたくなかったのだ。また彼女と別れることになることを。

 今度こそ、永遠の別れになるのだろう。

「ありがとう、朝陽くん……」

 ただ、彼女はお礼を言う。その優しさが、また朝陽の胸を強く締め付けた。

「……紫乃は、朝陽くんと彩ちゃんのことが大好きだから。だから、幸せになってね……紫乃が天国で嫉妬しちゃうくらい、精一杯、強く生きてね……」
「うん……」

 ただ、涙が溢れる。

 視界はぼやけてしまい、美しい景色を見ることが出来なかった。それでも彼女の言葉は、やけに鮮明に耳の奥へと届いてくる。

「朝陽くん……」

 ありがとう。

 最後にそう呟いて、紫乃はこの世界から旅立った。
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