君のいた時を愛して~ I Love You ~
 面会時間の終了を迎えた病院は静まり返り、外来病棟は電気が落とされていた。俺は救急の入口から入り、受付で中嶋先生との約束があることを伝えた。
 話はちゃんと通っていたようで、俺はすんなりと病院内に入ることができた。
 いつもは外来の待合室で先生に呼ばれるのを待つだけだが、さすがにこの時間の外来はほとんど電機が落とされて人気もなかった。
 俺は慌てて救急の入口に戻ると、受付に先生の居場所を尋ねた。
「中嶋先生でしたら、病棟にいらっしゃいますので、病棟の受付で確認していただけますか?」
 受付の人の言葉に、俺はサチが入院していた時のことを思い出し、お礼を言ってからエレベーターに向かった。
 もともと、病人を乗せるからだろうが、病院のエレベーターは遅い。病棟にサチを見舞いに行くときもイライラしたが、先生を待たせていると思うと、俺は更にイライラした。だからと言ってエレベーターのスピードが速くなるわけでもないのだが、俺はやっと扉の開いたエレベーターに乗り込むと、ボタンを押した。それでも、のんびりとしてなかなか扉を閉めないエレベーターに耐え切れず、俺は『閉』ボタンを連打した。
 やっと扉が閉まり、エレベーターはのっそりと言うのがピッタリなほどゆっくりと動き出した。
 面会時間を過ぎているから他の階に止まることもなく、先生の待っている目的の階にたどり着くと、俺は速足でナースステーションに向かった。

「すいません、中村と申しますが中嶋先生は・・・・・・」
 俺が言い終わる前に、ナースステーションの奥に居た先生が振り向き、俺に手を振って合図してくれた。
「面談室にいます」
 先生は近くにいた看護士に言うと、先に立って『面談室』と書かれた部屋の扉を開けた。
「どうぞ」
 中嶋先生に促され、俺は椅子に腰を下ろした。
「お仕事中にお仕事場にお電話してしまい申し訳ありませんでした」
 丁寧に謝る先生に、俺は頭を横に振った。
「いいえ、そんな。お電話いただけてありがたかったです」
 俺の言葉に先生はホッとしたような表情を浮かべた。
「サチには、診察についていくとずっと言っていたんですが、理学療法の日は診察がないとか、予約日を間違えたとか、ずっとそんな感じで、経過を尋ねても『良くなってるよ』としか言わないので、ずっと心配していたんです」
 俺が言うと、先生はため息をついた。
「やはり、そうでしたか・・・・・・。ぶしつけな質問をしてしまいますが、もしかして生活が苦しいとか、医療費が増えることが大きな負担になっているということはありませんか?」
 先生は言いにくそうに俺に行った。
「確かに、以前は昼だけでしたが、サチも働いてましたから、サチのお金はサチが管理していましたが、今は自分の収入だけですので、少し切り詰めたいとは思っているんですが、サチ地に負担を掛けたくないので、なんだかんだと出費は多くなってるのは事実です。でも、だからと言って、サチの治療を止めたいとか、そんなことは全く考えていません」
 俺の言葉を聞きながら、先生は何度も頷いた。
「たぶん、奥様のご判断なのだろうと、そう思っていましたから、どうしてもご主人とお話をしたくて、お仕事場までお電話させていただきました」
 先生は言うと、一旦言葉を切ってから再び話し始めた。
「既に奥様にはお伝えしておりますが、理学療法は効果が見られなくなりました」
 先生の静かな言葉は、医学の心得のない俺には最後通告に聞こえ、言葉は深々と胸に突き刺さった。
「もう、手はないんですか? サチは助からないんですか?」
 俺は身を乗り出して先生に問いかけた。
「落ち着いてください。次のステップに関しては、既に奥様にはお話ししたのですが、骨髄移植ということになります」
「骨髄移植・・・・・・」
 俺はオウムのように繰り返した。
「はい。残念ながら、投薬も理学療法も効果が薄く、副作用の方が心配な状況になってきましたので、奥様には早めの決断と登録手続きを進めるようにお話ししているのですが、それ以降、ご主人もご一緒にお話をしたいとお話ししても、お仕事が忙しい、平日は休めないの一点張りで、奥様はこのまま治療を続けるのでいいと・・・・・・」
 先生の言葉に、俺が一緒に病院に行くというと、嬉しくなさそうな様子だったサチの事を俺は思い出した。
「申し訳ないです。自分の方から先生にご連絡するべきでした」
 俺が言うと、先生は頭を横に振った。
「いいえ、そんなことはないです。病院というのは、意外に患者さんのご家族からのお電話はつながりにくいもので、大抵ナースステーション止まりで、こちらから折り返しになりますから」
 先生の言葉を聞きながら、俺はそうなんだと初めて知った。
「あの、それで、その骨髄移植をしたら、サチは治るんですか?」
 俺は恐々先生に尋ねた。
「そうですね。移植が成功すれば治ると思っていただいて良いと思います。ただ問題は、移植ができるかどうか、適応者が見つかるかどうかというところが問題です」
「俺のを使ってください。どんなに痛くても、俺なら我慢します」
 俺の言葉に、先生は優しい笑みをこぼした。
「骨髄の移植は、適合するドナーを見つけることが一番大変なんです。可能性があるのは、ご両親、ご兄弟が一番可能性が高く、血縁関係がなくなると適合者を見つけるのは非常に大変になりますが、血縁者以外に適合者がいないわけではありません。ただ、非常に困難だということは事実です」
 先生の言葉に俺は衝撃を受けた。サチに兄弟はなく、父親も亡くなり、母親は警察のご厄介になっている。
「それと、移植にはかなりまとまった費用が掛かります」
 先生の言葉に、俺はなぜサチが俺を病院と先生から遠ざけようとしていたのかを理解した。
 俺が話を聞けば、答えは簡単だ。サチの命をお金に換算することはできない。いくら費用が掛かっても、サチを助けようとする。だから、サチはこの話を俺に聞かせたくなかったんだ。病気だとわかった最初の頃も、病院にかかる費用は自分で払うと俺がお金を渡しても受け取ろうとしなかった。それでも、俺はサチの夫だから、ちゃんとおかねは渡していたけれど、先生からまとまったお金が必要になると聞けば、サチの考えることはすぐにわかる。
「それから、これ以上通院での治療は難しいというよりも、治療の効果があまり期待できない今、あらゆる感染症のリスクのある外界での生活は、リスクが高すぎますから、今後は移植ができるまで入院での治療をお勧めします。入院し、環境も栄養もコントロールすることができれば、今より薬や治療の効果がみられる可能性もあります」
 俺と離れることを嫌がるというよりも、恐れていると言ってもいいサチの事だから、入院に関しても即答で拒否したのだろうと、俺は理解した。
「奥様の場合、年齢もお若いですし、他に基礎疾患もなく、移植可能なドナーさえ見つかれば、完解の可能性は高いですし、しばらく投薬と定期検診が必要になりますが、ここで治療をあきらめるべきではないと主治医としては言わせていただきます」
 中嶋先生の言葉はもっともで、俺にもサチの治療をここで放り出すつもりはなかった。
「ありがとうございます。帰ってサチと話し合ってみます」
「よろしくおねがいします」
「あの先生、参考までに、移植ってどれくらい費用がかかるものなんでしょうか? その数十万とか、数百万とか・・・・・・」
 その次の桁は、さすがに用意できる自信がなくて言葉にすることはできなかった。
「数百万というところでしょうか。費用に関しては、経理ではないので我々医師はあまり詳しくは知らないのです」
 予想はしていたものの、やはり実際に数百万と聞くと、足が竦みそうになる。
「ただ、骨髄移植は、健康保険が適用になりますから、実際の負担額は三割程度ということになるかと思います」
「保険がきくんですか?」
「はい。適用診療です」
 先生の言葉に俺は少しホッとして、ようやくまともに息ができるようになった。
「ありがとうございました」
 俺がもう一度お礼を言うと、先生も安心したようにうなずいた。
「これから帰った、サチと話します」
「ご連絡をおまちしております」
 俺が立ち上がって頭を下げると、先生も立ち上がつって頭を下げた。
 俺は丁寧に何度も頭を下げ、病棟を後にした。それから、ゆっくりと一歩一歩踏み占めるようにして歩きながらサチの待つ部屋を目指した。

☆☆☆

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