君のいた時を愛して~ I Love You ~
 翌日、二人は一緒に病院に向かい、中嶋医師と今後の治療方針に関して話し合いを持った。
 二人が揃って受診することを望んでいた中嶋医師は、サチの治療の経過を説明し、今後の方針として、確実に効果が望める方法という意味で骨髄移植を提案した。しかし、これにはただ待っているだけでは治療にならないこと、可能な限りの近親者にも協力を依頼する必要があることが説明された。
 骨髄の移植適合は近親者でも確率は低いが、それでもドナーとしての登録をしている全くの他人との適合確率は非常に低いことが説明された。そして、場合によっては適合するドナーが見つかる前に最悪の結果が来てしまうケースもあることが説明された。
 残念ながら、コータにもサチにも難しい専門用語はなかなか理解することができなかったが、現在までのところ、治療に使える薬はいろいろと試したが、サチの症状にあった薬はなく、このまま薬を続けても、一部の薬はお金がかかり独にしかならない可能性も高いから、薬の量を必要最低限に減らし、ドナーを探し、見つかり次第移植するという方針で、可能な限り血縁者の協力を仰ぐ必要があるということは理解できた。

「あの、先生」
 サチが勇気を振り絞って声を掛けた。
「はい、なんでしょう、サチさん」
 中嶋医師は優しい笑顔を浮かべて答えた。
「その、近親者なんですが・・・・・・」
「はい。ご両親、ご兄弟、おじさん、おばさん、従兄弟、そう言った方々にご協力いただけると、意外に早く見つかる可能性もあります」
「その、父は多分、亡くなっていて、兄弟はいません。おじさんとか、おばさんという人にはあったこともないですし、従兄弟も知りません」
「そうですか・・・・・・。お母さんは?」
「・・・・・・刑務所に入っています」
 サチが消えそうな声で答えると、中嶋医師はコータの顔を一瞥した。しかし、コータの表情に驚きを認められなかった中嶋医師は、これが既知の事実ではあるものの、サチが自分に告げたくなく、移植の話をうやむやに従った理由の一つであることは察することができた。
「そうですか。でしたら、一度、ドナーとして協力する意思があるかどうかをお手紙で確認していただくことは可能ですか?」
 中嶋医師の言葉に、サチはぎゅっと手を握り締めながら頭を横に振った。
「あの人には、助けてもらいたくありません。もし、あの人が適合したら、出てきてから一生死ぬまで恩を着せらせて、お金を搾り取られます」
 サチの悲鳴のような言葉に、コータがサチの肩を抱き寄せた。
「すいません、先生。サチの家庭も複雑で。それはかなり困難なことだと思います」
 コータが言葉を足すと、中嶋医師は少し残念そうな顔をした。
「先ほどもお話ししましたが、本当に適合するドナーを見つけるのは至難の業なんです。ですから、ここでご存命のお母様にご協力をお願いできないのは、とても残念です」
「あんな人、死んだ方が世の中のためなんです」
 サチの冷たい言葉に、中嶋医師は一瞬ためらってから、言葉を継いだ。
「では、死ぬ前の最後の善行だと思って、骨髄バンクにドナー登録するように勧めてみてはどうでしょうか? もちろん、サチさんが病気だということを伏せて依頼するのは卑怯なやり方ではありますが、患者さんの情報とドナーの情報は法的に守られていますから、お母様が出所後に自分の骨髄が誰に移植されたかは、知られることはありません。当然、金銭の授受は法律で禁止されています」
 中嶋医師の言葉を聞きながら、サチは『あの悪人が悔い改めることはない』と心の中で思っていたが、さすがに口には出さなかった。
「ですが、親子のことは当事者にしかわからないことがありますから、ここから先は幸多さん、ご主人のご判断に委ねます」
 話を振られ、コータは無言で頷いた。
「それから、非常にお話しにくいことですが、現在、有効な薬がない状態のサチさんに普通の生活はお勧めできません。ご本人の希望を尊重して通院治療を進めてきましたが、移植を前提に治療方針を見直すのであれば、入院治療をお勧めします」
 中嶋医師の言葉に『嫌です』とサチが即答した。それは、弓が弦から放れる瞬間を狙うような短く、鋭い答えだった。
「サチ、治すためには、先生のお話もちゃんと聞かないと」
 コータが諭しても、サチは頭を横に振るばかりだった。
「サチ・・・・・・」
 コータの呼びかけにサチがコータの方を向いた。
「コータ、わかってる? あたし、そのドナーって人が見つからなかったら死んじゃうんだよ」
 サチの言葉にコータは心臓を掴まれたような苦しさを感じた。
「先生が言ったじゃない、家族以外で適合する人はすごく稀だって」
「それは確かにそうだけど、可能性はゼロじゃないって先生も・・・・・・」
 コータの言葉を遮るようにサチが言葉を継いだ。
「あの人でなしになんて、絶対に頼みたくない。そうしたら、あたし死ぬ確率の方が高いんだよ。いくらゼロじゃなくたって、ゼロかもしれない。それなら、最後の時間を一秒でも長くコータと一緒に居たい。だから、絶対に入院なんてしない!」
 サチの瞳は、既に死を現実としてとらえている人間の眼差しだった。
「サチ・・・・・・」
 コータにはそれ以上かける言葉が見つけられなかった。
 どんなに愛しいと、離れたくないと望んでいても、サチに残された時間があとわずかだとしたら、後悔なく、サチの望むようにさせてあげたいとコータは思わずにいられなかった。
 もし、万が一、無理やりサチを入院させて、その挙句にドナーが見つからなかったら、サチは寂しい思いをして、虚無感に襲われながら最後の時を迎えることになってしまう。
 そう思うと、自分が深くサチを愛しているからという理由で、サチに望まないことを押し付けることはコータにはできなかった。
「ですがサチさん、病院の管理された環境で安全に生活することによって、その最悪の事態が訪れるのを遅らせることはできます」
 中嶋医師の言葉に、サチは鋭い視線を投げかけた。
「それで、長く生きて、最後の時が来たら、私は何のために生きたのか、わからなくなるとは思わないんですか?」
 鋭く強いサチの語調に、中嶋医師が思わず怯んだ。
 今まで、穏やかで優しい印象だったサチの放つオーラがまるで殺意を含んでいるかのように鋭く突き刺さるのを感じたが、中嶋医師とて百戦錬磨の医師、その筋の人間だからと治療をしないわけではない。それだけに、今まで自分が感じていたサチに対する人畜無害で主人がいないと寂しくて死んでしまう優しいうさぎのようなイメージが一瞬のうちに鋭い牙と爪を備えた虎のような捕食する側の生き物というイメージに変わっていくのを感じた。

(・・・・・・・・彼女は、一〇〇パーセント助かるという確証を得るまで、絶対に自分の考えを変えないタイプの女性だ・・・・・・・・)

 中嶋医師は考えると、サチに優しく微笑んで見せた。
「そうですね。そう言われてしまうと、生きている意味を大切にしていないというわけではありませんが、私たち医師は、その資格を持ち、アスクレピオスの杖を頂く者として、時に患者さんの意志に関わらず、自らの職務である命を助けるということを一番に考えることがあります。例えば、手術中に容体が急変した場合、手術前に『救急救命措置は不要』という意思表示をされていても、それが必要な瞬間に患者さんの医師が確認できない、意識のない状態の場合は、人命を尊重し、救命措置を施します。それが、私たちに与えられた責務です。今すぐ命に関わる状態であれば、サチさんの身柄を拘束まではできませんが、入院措置を取らせていただくことも可能ですが、今回の場合、無理に入院を強制するほどの状態でないことも事実ですし、ご本人が望んでいない以上、同意書にサインがもらえないのでは入院は不可能ですから、そんな怖い顔をしないでください。サチさんの幸せは、サチさんにしかわからないものですから、その辺は幸多さんとよくお話をしてください」
 中嶋医師の言葉に、俯きかけていたコータは慌ててサチの顔を覗き込んだ。
「サチ・・・・・・」
 鋭い視線を中嶋医師に向けるサチに声を掛けると、コータはサチの手を優しく握った。
「大丈夫。俺は、サチが嫌がることはしないから」
 コータの言葉に安心したのか、サチは表情を緩めた。
「では、ご主人が一番最初に適合検査を受けられるということでよろしいですか?」
「はい。お願いします」
 コータは言うと、頭を下げた。
「では、ご主人は検査の予約を取るように手配しておきます。サチさんは、無理をしないようにして生活してください」
 中嶋医師の言葉に、二人はお礼を言うと立ち上がり、診察室を後にした。
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