君のいた時を愛して~ I Love You ~
三十五
 俺の祈りもむなしく、検査の結果は芳しくなかった。
 誰よりもサチを愛しているから、気合で適合できるなんてそんなことは考えていなかったけど、俺とサチが出会ったくらいだから、もしかしたら、俺がサチを救うことができるんじゃないかと・・・・・・。いや、違う。この世界に神と呼ばれるものがあるなら、俺とサチを出合わせ、俺たちに愛を教えたのだから、共に白髪の老人になるまで、一緒に居させてくれるくらいの計らいをしてくれるはずだと、俺は思っていた。
 サチの育った境遇を考えれば、神ならそれくらいの融通をつけてくれても良いはずだと。それなのに、俺の期待は打ち砕かれ、検査の結果は不適合で終わった。
 中嶋先生や顔見知りになっているスタッフのみんなが掛けてくれる慰めの言葉が俺をさらに虚しくした。
 石のように重い体を引きずるようにして病院を出た俺は、気付けば大将の店の前に立っていた。
 暖簾は下ろされている。当然だ。お昼には遅いし、夜には早すぎる時間だ。たぶん、朝市で市場に仕入れに行っている大将は昼が終わって一休みしている時間だ。
 わかっているのに、俺の足は勝手知った勝手口に一歩進むごとに涙が沸き上がり、扉を前に俺は溢れる涙を止められず、その場にしゃがみこんだ。
 必死に飲み込む嗚咽が漏れてしまわないように、俺は両手で口を押えた。
 あふれる涙で何も見えない俺は、体を震わせながら今まで味わってきたどんな絶望よりも激しく、深く、俺の命を震わすような悲しみを胸に抱え、その場に泣き崩れそうだった。
 そんな俺を優しいけれど、がっちりとした腕がしっかりと抱きしめてくれた。
「どうした。お前がそんなじゃ、さっちゃんが不安になるだろう」
 いつもなら、店で昼寝しているはずの大将の声に、俺は思わず顔を上げた。
「少し休んでいけ」
 大将は俺を抱えるようにして立ち上がらせると、店の勝手口をくぐり、店の奥にある大将の部屋に連れて行ってくれた。
「でも、夜の仕込みが・・・・・・」
 俺が言うと、大将は大きな声で笑い出した。
「お前、本当にまじめだな。良い歳した男が、店の勝手口前でそんなぐちゃぐちゃに泣き崩れてたのに、店の心配してるのか?」
「でも、もう、時間が・・・・・・」
 そこまで言ってから、俺は厨房に誰もいなかったことを思い出した。本来なら、大将が奥で休んでいる間、夜を担当する先輩たちや、大将の弟子の板さん達が仕込みや支度で大騒動している時間のはずだ。
「今日は、休みだ」
 大将がポツリとつぶやいた。
 平日に休みを取るなんて、大将らしくないと、俺の顔に書いてあったようで、大将はそのまま話し始めた。
「偶然ってのは、怖いな」
 大将は噛みしめるように言った。
「今日は、うちのの月命日なんだよ」
 俺は一瞬、大将が何を話しているのかわからず、困惑したまま大将を見つめた。
「あれが旅立ってから、俺はがむしゃらに働いた。現実から目を背けたくて、その日に一人になりたくなくて、あれの身内からは冷たい夫だと思われてる。あれは、俺が店に立って美味いものをお客のために作っている間に、一人で家で、寂しく逝っちまったんだ」
 そこまで来て、俺はやっと大将が話しているのが奥さんの事だと理解した。
「まだ、若かったんだ。俺とは歳の離れた若妻だった。初代の小女子って言った方が良いな。大学生のバイトで、夜だけだったが、着物も一人でちゃんと着られるしっかりした娘だった。お客のあしらいも上手く、厨房の奴も何人も粉かけていたみたいだが、一回り以上も歳が離れているのに、俺がもうメロメロでな、就職活動を始めたって聞いて、あれの居ない厨房なんて考えられなくて、玉砕覚悟で告白するつもりだったんだがな、逆に告白されちまったんだよ。男らしくないだろ・・・・・・」
 大将の話を聞きながら、俺はサチが最初に告白してくれた時のことを思い出した。
 サチは、俺のことをずっとずっと好きでいてくれたのに、俺が過去に囚われていたから、二人の幸せな時間を無駄にしてしまったんだと。
「まあ、あちらのご両親はご立腹でな。従業員に手を出して、責任を取って結婚なんて、出るところに出てやるとかなんとか。そうしたら、あれが自分の父親を平手で叩いたんだ」
 話の展開に俺はギョッとした。
「自分の娘が信じられないのかってな。まだ、手も握ったことないって、俺は、親子に間違われるのが怖くて、手が握れなかった。いつも、腕も組まずに、出かけたって並んで歩くだけだった。それなのに、結婚なんて、話が飛びすぎだよな。でも、あれが信じてもらえないなら、勘当してくださいって。まとめてあった荷物片手に挨拶に行った俺と一緒に家を出ちまったんだ」
「すごい行動力ですね」
 俺は思わずつぶやいた。
「家を出てきてしまったんだから、きちんとお嫁さんにしてくださいって。そのまま婚姻届けを出しに行ったよ。唖然とするあれの友達に証人になってもらってな」
 大将の話を聞いているうちに、俺は大将がすんなりと俺たちの婚姻届けの証人欄に名前を書いてくれたことを思い出した。
「結婚して、あれが大学を卒業して、あれは普通に就職したんだ。でも、学生結婚したことや、色々なことで会社の同僚との間に軋轢が生じたらしい。強い娘だったのに、一年も経たないうちに心を病んでしまって、会社を辞めて主婦になった。毎日、イタリアンだの、フレンチだの、中華だのと、楽しそうに料理して、楽しそうにしていた。でも、和食だけは作りたがらなくてな。うちの店で出してない料理だけって約束でやっと和食を作ってくれるようになって、幸せな時間はあっという間だった。あれが二十七だった。脳出血、いわゆる脳卒中ってやつだ」
「まだ、二十七歳ですよね?」
「ああ、先天性の病気らしい。なんでも、脳幹の近くの血管が魚を捕る網みたいになって絡み合って、その細くなった血管が破れるんだとか、俺には難しい話は分からないが、健康診断とかでは見つからないもので、今みたいに、携帯電話があればな。すぐに救急車が呼べただろうに。俺の古い家には、玄関にしか電話がなくてな。あいつは必死に電話のところに行こうと、もうあと少しだったのに、間に合わなかったんだ。俺が店を閉めて家に帰ると、あれは俺に助けを求めるように、玄関の方に手を伸ばして冷たくなってた。それ以来、家に居たくなくてな・・・・・・」
 初めて聞く大将の話は、俺には自分の未来のようで身につまされて、再び涙で目が潤み、嗚咽がせりあがってきそうだった。
「さっちゃんが難しい病気だって聞いて、あれのことを思い出すようになった。そうしたら、逆に、その日はがむしゃらに働くんじゃなくて、あれとの思い出を大切にしたいと思うようになった。それで、毎月、あれの月命日は店を休むことにしたんだよ」
 大将は言うと、長く大きく息を吐いた。
「今日は、店に来るつもりはなかったんだがな、なんとなく、お前が来るような気がして、散歩ついでに歩いてきてみたら、お前が勝手口の前でしゃがみこんで泣いてるから、これもあれの導きだなと思ったよ。俺は、勝手にお前とさっちゃんの父親の気持ちでいるからな」
 大将は笑って見せたが、その笑顔は俺には泣きそうに見えた。
「で、お前があんな状態ってことは、さっちゃんの具合、よくないんだな?」
 大将の言葉に、俺は無言で頷いた。
「俺に、何かできることはあるか?」
 大将の言葉に、俺は勇気をもって顔を上げるとまっすぐに大将のことを見つめた。
「大将、お願いです。骨髄バンクにドナー登録していただけませんか?」
 俺の言葉に、大将はきょとんとした表情を浮かべた。
「その、何とかに登録するとさっちゃんの役に立てるのか?」
 俺はかいつまんでサチの病状を説明し、もう骨髄移植しか道がないこと。サチには兄弟はなく、親も居場所がわからないから、一人でも多くの人にドナー登録してもらうことで、適合者が見つかれば、サチが助かることを話した。
 俺の言葉は、川の水が堰を切って流れ出すように、とどまることを知らないといった感じで、考える間もなく口から言葉があふれ出て行った。
 俺の言葉に耳を傾けていた大将は、噛みしめるように何度も頷いた。
「わかった。店の人間にも、登録に行くなら俺が給料を保証するって言って一人でも多く、協力してくれるように話してみる。でも、その移植ってやつは、すごく金がかかるんじゃないのか? ドナーが見つかっても、払うあてはあるのか?」
 正直、あてなんて何もない。適合するドナーを探すので精一杯だった。でも、そんな弱音を吐いたら、すべてが崩れてしまうような、そんな気がしていた。それでも、大将を前に俺はすべてを吐露してしまいたくなった。
「・・・・・・いえ。まだ、お金の工面までは全然できていません・・・・・・」
「そうだろうな。まず、ドナーを探すのが第一だからな・・・・・・」
 大将はしみじみと言った。
「なあ、なんでだろうな」
 ぽつりと大将が言った。
「はい?」
「いや、世の中は、長寿時代だって言って、女性は八十超えたんだろう、平均寿命が。それなのに、うちのは三十路を迎える前に逝っちまった。さっちゃんだって、まだまだ若いのに。なんで、そんな大病して、苦しまなきゃならないんだろうな・・・・・・」
 大将は言うと、涙を零すまいとするように天を仰いだ。
「もし、ドナーが見つかって、どうしても金の工面が間に合わなかったら、ヤバいところに金借りたりしないで、必ず、俺に相談に来るんだぞ。いくら工面できるかはわからないが、この店担保に入れてでも、どっかから都合してやるからな」
 大将の言葉に、俺はもう涙を止めることができなかった。
 俺は、サチに出会うまで、こんなに親切な優しい大将のことも、ただの仕事の上司、雇用主だから、気に入らなかったら、俺をあっさりクビにする、そんな冷たい存在だと思い込んでいた。サチがいたから、俺は、この世に人の温かさんなてもうないと思っていたのに、実は、こんなにたくさんの温かさが、この世には溢れているんだって知ることができた。
「さっちゃんが心配するから、そろそろいつもの鰆(さわら)に戻って、今を大切にしろよ」
 大将の顔も泣き笑いだった。
「大将、鰆って。もう、俺は・・・・・・」
「小女子も、鰆も、二人が戻ってくるまでは永久欠番だな・・・・・・」
「えっ?」
 俺は驚いて大将の顔を見つめた。
「お前以外のだれも、鰆にはさせないって、そう決めたんだよ。何かがあって、五日、お前が戻ってくることができる場所はここにあるからな。さっちゃんにも、小女子復活大歓迎って、伝えておいてくれよ」
「はい」
 俺は深々と対象に頭を下げた。
 こんなにも温かい優しさに俺は包まれていたのだと、俺は胸が温かくなった。

☆☆☆

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