君のいた時を愛して~ I Love You ~
 二階に上がり、夫婦の寝室ではなく、嫁いで以来、薫子にあてがわれている部屋に入ると、普段着に着替え、文机に向かった。
 引き出しの中には、航が好まない書籍やアーチストのCDが隠してあった。いつもは航の不在時に取り出して読んだり、聞いたりするのだが、薫子は大きなため息をつくと古いCDを一枚取り出し、小さなステレオにセットした。
 懐かしいピアノのメロディーに、『I love you~』と学生時代を思い出す男性歌手の声が響いた。カリスマ性がありながら、退廃的で刹那主義を美化する歌手の姿勢は賛否両論で、航のような硬派には好まれない歌手だった。
 刹那的な若者二人の愛を歌う歌手が、薫子にコータとサチを思わせた。
 生まれも育ちも関係なく、ただただ愛を追い求め、愛だけを頼みにする二人の姿は、薫子には決して真似をすることのできない生き方だった。
 不幸かと尋ねられれば、薫子は不幸ではなかった。生活に困ったこともなく、食べることに困ったこともなく、大学も無難に卒業し、花嫁修業をして歴史のある渡瀬の跡取りに嫁いだ。跡取りを産むことはできなかったが、航は薫子を蔑ろにすることはなかった。航の両親、特に義理の母が生きている間は、針のむしろのような日々もあったが、それでも、実家に帰りたいと思うほどのいじめを受けたわけでもなかった。
 それでも、ただただ、航の両親に仕え、航に仕える日々を振り返り、薫子は自分は何のために生きているのだろうかと、とりとめもなく考えながら曲を繰り返し聞いていた。
 ノックもなく、ガチャっと音がして扉が開き、薫子が扉の方を振り向くと、航が忌々しそうな表情を浮かべて薫子を見ていた。
「まだこんなくだらない曲を聴いていたのか。我が家の家風に会わないものは捨ててしまえと嫁いだ時に行ったはずだ!」
 頭ごなしに言う航に、薫子は目をそらした。
「私が自分の部屋で静かに聞いているだけで、渡瀬の家名を傷つけるなどありえません」
 薫子の言葉に、ついぞ足を踏み入れたことのない薫子の部屋に踏み入ると、航は強引に曲を止め、CDを取り出すと薫子の目の前で力任せにCDを割り、近くの屑籠に投げ入れた。
「あなた・・・・・・」
 薫子はそれ以上言葉を継ぐことができなかった。
「嫁いできて何年経てば、この渡瀬の家の家風になれるんだ!」
 声を荒立てる航に、薫子は何も口答えしなかった。
「私はもう休む。こんなふざけたものを聞いているなら、お前は勝手にしなさい」
 航は言うと、バタンと扉を閉めて部屋から出て行った。
 勝手にしろと言われても、懐かしいCDは既に割られて屑籠の中に放り込まれ、聞くこともかなわない。
「あの人にとって、私は、いったい、何なのでしょう・・・・・・」
 薫子は呟くと、屑籠の中から割られたCDを拾ってみたが、直す術もないので薫子は再び割られたCDを屑籠に戻した。
 その晩は、とても夫婦の寝室に向かう気持ちに離れず、薫子はそのまま自分の部屋で休むことにした。
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