君のいた時を愛して~ I Love You ~
四十
「鰆、五番さんの御造りあがったよ」
厨房からの声に俺は今朝大将が仕入れてきた鯛の尾頭付きの盛り付けられた皿を受け取った。
五番さんというのは、一階席ではなく、二階の御座敷の一室で、最大四名の個室だが、大抵二人、多くても三人の予約に使われる部屋だ。
俺は美しい盛り付けを崩さないように階段を上ると、板張りの廊下に座ってから部屋の中に声を掛けた。
「失礼いたします」
夜も働くようにするために、先輩方から教えてもらった礼儀作法を思い出しながら、襖をあけた。
「本日の御造りになります」
俺の声に振り向いた二人の客のうちの一人は、俺が忘れることのできない男だった。
俺は仕事に徹して、個人的な感情を表に出さないように、テーブルの真ん中に皿を置いた。
「まだ、こんなところで使い走りをしているのか」
見下すように、ため息交じりの言葉は癇に障ったが、何を言われても、客に口答えすることは許されない。だから俺は答えずにそのまま座敷を去ろうとした。
「あの女とは別れたのか?」
しかし、俺は立ち去ることができずに、その声の主の方を振り向いてしまった。
「母さんを捨てた男に、サチをあの女呼ばわりなんてされたくない!」
俺の言葉に、連れの男の方が驚いて俺とあの男を見比べた。
「えっ? 航(わたる)さん、もしかして、洋子さんの息子さん?」
その言葉に、俺は連れの男も母さんを知っているのだと初めて知った。
「立派になって・・・・・・」
「何が立派なものか、三十を過ぎてもこんなところで使い走りをしている男のどこが立派だ」
あの男の言葉は、俺の神経を逆なでするだけだった。
「航(わたる)さん、そういういい方は・・・・・・」
「洋子もどんな教育をしたんだか、水商売をしていた、犯罪者の娘なんかと籍を入れたりして」
母さんを馬鹿にされ、サチを馬鹿にされた俺は、自分の今置かれている立場も考えず、あの男に掴みかかった。
「あんたには言われたくない」
「放しなさい」
「長年連れ添って、あんたの不誠実さにも文句も言わない奥さんを大切に出来ないような男に、俺や母さんや、サチの事を悪くなんて言われたくない」
喧嘩っ早いわけではないが、母さんを泣かせ、サチを泣かせ、薫子さんを苦しめ、俺を自分の都合で拉致・監禁したと思うと、思わず俺は右手を振り上げた。
「これだから、学のない人間はすぐに暴力に訴えると言われるんだよ」
それでも俺の事を鼻で笑うあの男の顔に人生初めての渾身のパンチを打ち込もうとした俺の腕を連れの客が掴んで停めた。
「航(わたる)さん、それは洋子さんに失礼すぎます。それから、君もお客に手を上げたら、大将にどんな迷惑がかかるか、わかるだろう」
諭すように言われ、俺は腕を下ろした。
「お前の怒りはその程度か」
鼻でせせら笑うようにして言うあの男に、俺は背を向けると廊下に出て座り、『失礼しました』と言って襖を閉めた。
階下に降りた俺は、大将に五番の配膳から外してもらうように願い出た。
自分から仕事を断るようなことをしないのを知っている大将は、理由を聞きたがったが、とりあえずその場は不問にしてくれた。
☆☆☆
厨房からの声に俺は今朝大将が仕入れてきた鯛の尾頭付きの盛り付けられた皿を受け取った。
五番さんというのは、一階席ではなく、二階の御座敷の一室で、最大四名の個室だが、大抵二人、多くても三人の予約に使われる部屋だ。
俺は美しい盛り付けを崩さないように階段を上ると、板張りの廊下に座ってから部屋の中に声を掛けた。
「失礼いたします」
夜も働くようにするために、先輩方から教えてもらった礼儀作法を思い出しながら、襖をあけた。
「本日の御造りになります」
俺の声に振り向いた二人の客のうちの一人は、俺が忘れることのできない男だった。
俺は仕事に徹して、個人的な感情を表に出さないように、テーブルの真ん中に皿を置いた。
「まだ、こんなところで使い走りをしているのか」
見下すように、ため息交じりの言葉は癇に障ったが、何を言われても、客に口答えすることは許されない。だから俺は答えずにそのまま座敷を去ろうとした。
「あの女とは別れたのか?」
しかし、俺は立ち去ることができずに、その声の主の方を振り向いてしまった。
「母さんを捨てた男に、サチをあの女呼ばわりなんてされたくない!」
俺の言葉に、連れの男の方が驚いて俺とあの男を見比べた。
「えっ? 航(わたる)さん、もしかして、洋子さんの息子さん?」
その言葉に、俺は連れの男も母さんを知っているのだと初めて知った。
「立派になって・・・・・・」
「何が立派なものか、三十を過ぎてもこんなところで使い走りをしている男のどこが立派だ」
あの男の言葉は、俺の神経を逆なでするだけだった。
「航(わたる)さん、そういういい方は・・・・・・」
「洋子もどんな教育をしたんだか、水商売をしていた、犯罪者の娘なんかと籍を入れたりして」
母さんを馬鹿にされ、サチを馬鹿にされた俺は、自分の今置かれている立場も考えず、あの男に掴みかかった。
「あんたには言われたくない」
「放しなさい」
「長年連れ添って、あんたの不誠実さにも文句も言わない奥さんを大切に出来ないような男に、俺や母さんや、サチの事を悪くなんて言われたくない」
喧嘩っ早いわけではないが、母さんを泣かせ、サチを泣かせ、薫子さんを苦しめ、俺を自分の都合で拉致・監禁したと思うと、思わず俺は右手を振り上げた。
「これだから、学のない人間はすぐに暴力に訴えると言われるんだよ」
それでも俺の事を鼻で笑うあの男の顔に人生初めての渾身のパンチを打ち込もうとした俺の腕を連れの客が掴んで停めた。
「航(わたる)さん、それは洋子さんに失礼すぎます。それから、君もお客に手を上げたら、大将にどんな迷惑がかかるか、わかるだろう」
諭すように言われ、俺は腕を下ろした。
「お前の怒りはその程度か」
鼻でせせら笑うようにして言うあの男に、俺は背を向けると廊下に出て座り、『失礼しました』と言って襖を閉めた。
階下に降りた俺は、大将に五番の配膳から外してもらうように願い出た。
自分から仕事を断るようなことをしないのを知っている大将は、理由を聞きたがったが、とりあえずその場は不問にしてくれた。
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