君のいた時を愛して~ I Love You ~
 俺とサチの生活は、貧しいを絵に描いたよりも貧しかった。
 俺の部屋はワンルームと言えば聞こえがいいが、実のところは風呂もなく、トイレと台所は共有。四畳半一間の部屋に一口コンロと顔を洗うのが精一杯のステンレスの流し、その下に気持ちばかりの冷蔵庫がついている。それでも、何もない部屋よりはましだ。
 光熱費込みの家賃で、自室で多少なりとも煮炊き出来るのはありがたいし、朝の混雑時に洗面所が空くのを待たずに顔も洗うことができる。
 本格的な料理や電子レンジを使うには共用の台所に行くほかないが、自前の炊飯器でご飯を炊いてレトルトのカレーを食べたり、インスタントラーメンを自室で作れるのは、差額の数千円を上乗せする価値があると俺は思っている。簡易台所のない部屋には、押入れがついているらしいが、台所がある分、俺の部屋には収納らしい収納はない。
 この都会の一角に建つ、過去の亡霊のような格安アパートは、多分アパートというよりも、下宿と表現する方が正しいのかもしれない。
 光熱費込みだというのに、二人で住んでも文句も言われない。何しろ、風呂上りに自室でドライヤーでも使おうものなら、ヒューズが飛ぶ仕様だ。だから、何人住んでいようが、使い倒せる電力には限界があるという事なんだろう。実際、同じサイズの部屋に親子四人で住んでいる家族もいる位だから、その人たちに比べると、俺はここでは優雅な一人暮らしってことになる。だから、俺がサチを連れて帰っても、誰も興味を持たなかったし、自分たちが生きるのに精いっぱいの隣人たちは誰一人サチなどそこに居ないかのようにいつもの生活を送っていた。
 建物の玄関をくぐり、俺はサチに靴を脱ぐように促す。
 ここは建物自体の一階にある玄関の中は土足厳禁で、居住者は玄関脇の作り付けの鍵付き下駄箱に靴をしまう決まりになっている。俺は自分の靴をしまったが、サチは鍵がついているからか、自分の靴をしまわず、手に持ったまま俺に続いた。
 俺はざっと建物の中の作りを説明すると、薄い板張りの自室の鍵を開けた。その下駄箱の後ろのスペースが俺の部屋だと簡易台所で、少し安い部屋だと押し入れになっているらしい。
 自室で煮炊きできる部屋は家賃が高いので空室がでることが多いようだが、押入のある部屋は空き待ちのリストも長く、今住んでる人間が死ぬまで空かないとまで言われている。事実、押し入れのある部屋に住んでいるのは高齢者が多く、死ぬまで空かないという説明に妙に納得してしまう。
 俺の場合、男の一人住まいの上、常に財布の中身を計算しなくてはホームレスに転落してしまう身なので、持ち物はは使い古した煎餅布団と綿のよった掛け布団一枚に虫の食った毛布が一枚だけだったが、今は、前の住人が持っていけないからと置いていったベッドをありがたく使わせてもらっている。と言っても、マットレスはスプリングが飛び出し、寝られる代物では無かったが、裏返して上に布団をのせれば、なんとか寝ることができた。
 俺の自室の入り口で靴を片手に立ち尽くすサチに、俺はコンビニの袋を渡して靴を入れるように促した。
「俺はベッドに寝るから、好きなところに寝てくれ」
 言いながら、好きなところなんて言ったってベッド脇に並んで横になるくらいしか場所がないことぐらい見ればわかるのにと、俺は苦笑した。
 俺が何を言っても、サチは返事をせず、にこりともしなかった。
 サチはビニール袋に汚れたスニーカーを入れると、それを手に持ったまま入り口前にぺたりと座り込んだ。
「なんか飲むか?」
 問いかけながら、俺は冷蔵庫を開けて作り置きしてあるお茶を取り出した。
 来客が来ることのない俺の部屋には、グラスが一つしかなかったので、俺はサチにグラスを使わせ、自分は茶碗でお茶を飲んだ。
 俺がお茶を飲んだ茶碗を洗いベッドに座ると、サチも俺に習ってグラスを洗った。
「好きなところで寝ていいから」
 俺は言うと、ベッドの下にしまってあった毛布をサチに渡した。
 サチは何も言わずに受け取ると、さっき座っていたのと同じ場所に座り、毛布にくるまった。
「おやすみ」
 昇り始めた太陽の光がくたびれた薄いカーテン越しに部屋を照らす中、俺は布団に潜り込んだが、目覚めた人々の喧騒で、いつもの事ながら眠りは薄く、いつもとは違う人の気配のある部屋に、俺はなかなか寝付くことができなかった。
 しかし、よほど疲れていたのか、壁に寄りかかり座ったまま毛布にくるまるサチからは、規則的な寝息が聞こえてくる。
 見ず知らずの男の部屋に、しかもこんな狭い部屋に二人っきりで寝られるなんて、いままでサチがどんな暮らしをしてきたのだろうかと、思わず考えてしまった。
 もし、サチが客を取るような女だったら、迷わずに俺のベッドに近づいて金を要求するはずで、大人しく毛布にくるまって眠るとは思えない。
 ただの家出だったら、転がり込む先がなく仕方なく俺についてきたとも思える。でも、俺がサチに声をかけた理由は、たぶんサチの生気を失った目の鈍い輝きだったと思う。
 以前、非正規雇用でも社員寮に住めるという謳い文句で俺が働いていた工場は、不景気のあおりをうけ、一気に非正規従業員の契約を終了させた。そのせいで、俺の用に非正規雇用で働いていたスタッフは、契約終了とともに社員寮からの退去を命じられた。
 季節は冬に向かう厳しい時期で、ほとんどのスタッフが親兄弟や親戚、友人を頼って寮を立ち退いていったが、俺の様に頼るすべのない人間は、有り金をかき集めてネットカフェで夜を過ごし、毎日、ハローワークで仕事を探し、無料のバイト雑誌を読み漁った。でも、仕事に年末の近い季節柄、転職活動はなかなか実を結ばず、貯金の少ないものから、一人、一人とホームレスになっていった。
 ただ俺の場合、工場で務める前、日雇いの建築現場の仕事に出ていたことのあった俺は、その時の知り合いの伝手でこの部屋を教えてもらい『どんな仕事も、住所不定では難しい』という、年配の知り合いの言葉を信じてこの部屋を借りた。
 当然、ネットカフェ仲間からは、仕事も決まっていないのに定期的な出費となる家賃を貯金から捻出することに否定的な意見を沢山聞かさせられた。それでも、ここの破格の安さはネットカフェに泊まり込むのと大した差はなく、シャワーがない事を除けば、ネットカフェよりもプライバシーが守られるし、持って歩くには恥ずかしい布団などの寝具を処分する必要もない。まあ、優しい社員さんに頼んで、庭の物置に俺の私物はしばらく預かってもらっていたことは、みんなには内緒にしている。それは、会社側の人間と親しくすることを会社を相手取って訴訟を起こしている年長者たちのグループに、俺たち若い世代は金魚のふんのように付き従うしか生き残れないという習慣のようなものがあったからだ。そういう意味では、俺はどこにいっても、半端ものだったのかもしれない。
 俺は自分の事や、サチの事を考えながら、ゆっくりと眠りの中に落ちて行った。

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