君のいた時を愛して~ I Love You ~
十七
それは、クリスマスを翌週に控えた十二月の事だった。
 渡瀬航(こう)は偶然再会した、思わぬ旧友と共に行きつけの会員制のバーで親交を深めていた。
「いやあ、何年ぶりだろうなぁ、ワタルさんとは、もしかして卒業以来ですか?」
 渡瀬のことを『ワタル』と呼ぶのは、大学時代の親しい友人と後輩だけだ。渡瀬の『渡』と名前の『航』をかけて、上から呼んでも下から読んでも『わたせわたる』などと、よく言われたものだった。
 親にしてみれば、瀬を渡る航の如く、荒波に打ち勝って成功してもらいたいという思いが込められていたようだが、つけられた方としては、子供の頃は某有名な海苔の広告に引っ掛けられてからかわれ、大学に行ってもなおニックネームが『ワタル』というくらいだった。
 だからと言って、渡瀬自身がこのニックネームを嫌がっているというわけではない。海苔の広告よろしく、『上から読んでも~』などという、ばかばかしいニックネームだった小学校のころに比べれば、『航』という字が『わたる』とも読めることを考えれば、まったくもって納得のいくニックネームであった。
「そうだなぁ。何年ぶりかなぁ」
 渡瀬自身も甘酸っぱくも懐かしい、大学時代に思いを馳せた。
「ああ、確か、中村さんとの駆け落ち騒動が最後でしたよね」
 言ってしまってから、陸上(くがみ)は渡瀬が起こっていないか様子を窺った。
「そんなこともあったな。若気の至りというやつか」
 完全に過去のこととして渡瀬の中で一件が消化されていることを知り、陸上は安心した。
「でも、中村さんは偉かったですよ」
「ん? 何がだ? 身を引いたことか?」
 渡瀬は言いながら、ブランデーのグラスを手に取った。
「一人で、立派に男の子を育てて・・・・・・」
「なんだ、夫に先立たれたのか?」
 渡瀬はつくづく運のない女性だと思いながらグラスに口をつけた。
「なに惚けてるんですか。ワタルさんの息子じゃないですか」
 陸上は言うと、自分もダブルの水割りが入ったグラスを取り上げた。
「俺の息子?」
 渡瀬の手がグラスを持ったまま止まった。
「そうですよ。あの駆け落ち事件の時、中村さん、妊娠していたんですよ。ワタルさんも人が悪いですよ、人を試すなんて」
 ほろ酔い気分の陸上の言葉に、渡瀬の手からグラスが滑り落ちた。
「陸上、それは本当のことなのか?」
 信じられないといった表情の渡瀬に、陸上の顔から酔いが醒めた。
「もしかして、ワタルさん、知らなかったんですか?」
「洋子からは何も聞いていない」
 昨日のことのように、かつての恋人の姿が思い出され、名前がするりと口から出た。
 中村洋子は、渡瀬が唯一愛した女性だ。
 現在の妻との結婚を望む両親の猛反対を受け、一度は駆け落ちまでしたものの、卒業を間近に控えた身では、誰にも知られない遠くへ行くこともできず、場末の宿に偽名で部屋を取ったものの、洋子はすぐにこれからの生活に不安を訴え、駆け落ちなどすれば、決まっている就職も棒に振ることになると、これからどうやって生活していくのかと、涙ながらに訴えた。
 二人の貧しくとも幸せのある生活を夢見ていたロマンチストの渡瀬は、洋子のあまりに現実的な言葉に打ちのめされ、洋子に幻滅すらした。そして、やはりこの女も資産家である渡瀬の家に吸い寄せられて自分と付き合っていたのだと軽蔑すらした。
 今となっては、どちらから家に帰ろうと言い出したのかも覚えていないが、渡瀬はその日を境に洋子との恋人関係は解消され、二度と再び二人だけで会うことはなかった。
 何度か洋子から説明させてほしいと連絡があったが、渡瀬は今更話すことはないと断り、卒業とともに、洋子の存在を自分の中から消そうとしたが、やはり若い情熱で愛し合った相手は忘れられず、こうして歳をとればとるほど、親からのお仕着せの妻ではなく、洋子と結婚していたら、もっと違う人生があったのではないかと、考えてしまう今日この頃だった。
「そうだったんですか。すいません、口が滑りました」
 陸上は言うと頭を下げた。
「洋子は、元気にしているのか?」
 渡瀬の問いに、陸上は驚きの表情を隠せず、しばらく思案してから答えた。
「中村さんは、もう、ずいぶん前に亡くなりました。息子さんが、高校に在学中だったか、卒業した頃だったか、とにかく、ずいぶん前のことです」
「ずいぶん詳しいんだな」
 渡瀬は言うと、新しいグラスにブランデーを注いだ。
「詳しいというほどじゃないんです。当時、交際していた相手が中村さんと親しくて、彼女を通して中村さんの妊娠を知ったんです。女性陣は、ワタルさんに養育費を貰うべきだとずいぶん説得したようですが、中村さんは自分が望んで作った子供だからと、ワタルさんには責任はないと言い続けて、結局、卒業してしまったんです」
 陸上の話に、頑固で一度決めたら、その道をまっすぐ進んでいく洋子の姿が思い出された。
「ずいぶん経ってから、偶然、男の子を連れた中村さんに会ったんですよ。そうしたら、うちの系列の子会社で事務職をしていることが分かって、結婚もしていないっていうんで、仕事のついでに話をする程度でしたが、人の嫌がる面倒な仕事を進んで引き受けて、本当に、中村さんは変わってないなって思いましたよ。でも、事務の稼ぎでは、息子さんの高校の進学費用が作れないって、夜も働いていたようでした。自分が中村さんの死を知ったのは、転勤先の九州でのことで、正直、何もしてあげられなかったのが心残りです」
「それで、息子はどうしたんだ?」
「わかりません。調べようかと、何度も思ったんですが、家内に誤解されるのも嫌だったので、そのままに・・・・・・。すいません」
 陸上に謝られ、渡瀬は急に居心地が悪くなった。
「別に、謝ることはないだろう。大学時代の恋人の友人のことなど、そんなものだろう」
 言いながら渡瀬は、自分が長年望んでも手に入れることのできなかった、子供という存在の重みに言葉では表現することのできない感慨を覚えた。
 病気のせいで子供を持てない体となった渡瀬にとって、血を分けた自分の子供がこの地上のどこかで生きているということは、それこそ、神が与えたクリスマスプレゼントのようにも思えた。
「父親を知らず、その子は、さぞや苦労したのだろうな」
 渡瀬の脳裏を洋子の言葉が走馬灯のように駆け抜けていった。
 洋子は渡瀬の財産が狙いだったのではなく、これから生まれてくる子供のことを考えて、渡瀬に家に戻り、親を説得してもらいたかったのだと、今になって渡瀬はやっと理解することができた。
 別れたはずだと、何度言っても、五分でいいから時間をくれと引き下がらなかった洋子は、きっと渡瀬に自分が妊娠していること、そして、子供を渡瀬が喜んでくれるのかを知りたかったに違いなかった。
 たとえ、渡瀬が喜ばなくとも洋子の性格から、子供を堕胎するようなことはなかっただろうが、親にも相手の名を言わず、父親のわからない子供を産み育てた洋子の環境は、やはり針のむしろだっただろう。
 洋子と子供話ですっかり良いの醒めた渡瀬と陸上は、お互いに良い年が来ることをねぎらいながら、別れを告げた。
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