君のいた時を愛して~ I Love You ~
「なに、鰆病気なんだって?」
 板前見習中の先輩の問いに、サチは『はい』と即答した。
「なんであいつ、自分で電話してこないで、小女子ちゃんに伝言頼むわけ?」
「えっ?」
 以前から、先輩が自分に気があるそぶりをしていることには気付いていたが、大将の手前、色恋よりも技を極めるというスタンスを前面に出している先輩は声に出して絡んでくることはなかった。
「あ、かなり具合が悪いみたいで・・・・・・」
「でも、同じ部屋に住んでいるわけじゃないのに、小女子ちゃんのところにはいかれたんだろ?」
 先輩の言葉に、突然、賄いを食べていたスタッフの視線がサチに集まった。
「あ、今朝、バター切らしちゃって、借りに行ったらドアーの外まで咳をしてるのが聞こえて、あたしが代わりに連絡してあげるって言ったんですよ」
 サチが何事もなかったかのように言うと、ほとんどのメンバーは興味を失ったようだったが、先輩だけは納得していないようだった。
「でも、外まで聞こえるってどんだけだよ」
「あ、うちのアパートすごいボロで、もともとは学生相手の下宿屋さんだったらしくて、今時土足厳禁なんですよ」
「マジ?」
「はい。だから、壁も薄くて、よく隣の音とかきこえるんですよ。だから、頑張ってここでバイトして、もっといい部屋に引っ越したいなって思ってるんです」
「じゃあ、夜のスタッフに入れば良いんじゃないの?」
 先輩の言葉に、サチが返事に困っていると、大将が顔を出した。
「おい、そのへんにしとけ。お前、無駄口叩いてる暇があったら、とっとと夜の仕込みに入れ」
 大将の怒りを含んだ声に、先輩は慌てて賄いを流し込んだ。
「小女子ちゃん、気にしないでいいよ。小女子ちゃんが夜の席は苦手だってわかっているから。でも、緊急の時に助けてもらえると、ありがたいよ」
 大将の言葉に、サチは頭を下げた。
「勝手なお願いばかりして、本当にすいません」
「まあ、酔っ払いに襲われそうになったことがあるなら、仕方がないよ」
 大将はサチにだけ聞こえるように言うと、再び奥に姿を消した。
 サチは賄いを食べ終わると、自分の使った食器を洗い、先輩方に挨拶をしてから店を後にした。
 いつもなら、コータと話をしながら帰る道を一人で歩き、サチはアパートへ帰った。
 しかし、アパートに帰ってもコータの姿はなく、サチは仕事の間もこっそり身に着けていたPHSを取り出してみたが、コータからの着信もメールもなかった。
『大将には風邪で咳が止まらないって話してあるから心配しないで。コータの帰りを待ってるからね。サチ』
 慣れない手つきでメールを入力すると、サチはコータに宛てて送信した。

☆☆☆

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