君のいた時を愛して~ I Love You ~
ガラスの自動ドアーをくぐると、ロビーにいた人々が一斉に俺の方を向いた気がした。
でも、次の瞬間、それは俺の方を向いたのではなく、俺の前を歩く、俺の父だという人の方を皆が振り向いたのだと気づいた。
確か、こういうのを『虎の威を借る狐』の図っていうんだよな、なんて考えながら、俺はただ言われるままに従ってエレベーターに乗り、言われるままに父だという人の後に続いて大きな部屋に入った。
窓側に置かれたどっしりとした机、壁を覆う飾り棚と美術の時間に見たことのあるような絵画の飾られた部屋には、入ってすぐのところに黒い革張りの応接セットが置かれていた。
ピカピカ光る革の美しさに、俺は思わず見とれてしまった。
「なにをボサっと突っ立ってるんだ、早く座りなさい」
机寄りの一人掛けソファーに座った父だという人に言われ、俺は向かい側の二人掛けのソファーに腰を下ろした。
「いま、人事部長が来る」
人事部長? 何のために? 俺は聞きたかったが、何も言わずに堪えた。
ノックの後、すらりとした小綺麗な女性が人事部長の到着を告げ、中肉中背の男性が入ってきた。歳は四十代後半から五十代位で、仕立てのいい、いかにもどこかのブランドものですという感じのスーツを着こなしていた。
「社長、大変お待たせいたしました」
人事部長が言うと、社長と呼ばれた、父だという人は、人事部長に座るように合図した。
「紹介しよう。これが、私の愚息だ」
愚息? 冗談じゃない。『母さんは、死ぬ間際まで、俺のことを立派な息子だと言ってくれたのに、会ってと言うよりも、いきなり拉致してこんなところまで連れて来たあんたの方が、愚父だろ』と言う言葉が、喉をついて出そうになったが、俺は必死に言葉を飲み込んだ。
「こちらが、書類になります。経歴に間違いがないか、ご確認いただけますか?」
人事部長が差し出した履歴書には、『渡瀬幸多』と書かれており、どうやって調べたのか、俺の生年月日から卒業した学校、以前働いて会社の名前や働いていた期間まで書かれていた。
「あの、名前が違います。自分は、中村幸多です」
俺が言うと、人事部長は困ったように社長の方を向いた。
「まだ、いろいろと戸籍の方が整っていないので、今は中村だが、すぐに渡瀬になるから、社内では渡瀬で通してくれて構わない」
「かしこまりました。では、こちらの書類に目を通して戴き、署名は中村ではなく、渡瀬幸多でお願いいたします」
人事部長は言うと、書類を何枚も手渡してきた。
秘密保持に関わる同意書、新入社員向け社内IDの使用に関する規定、行動規範、電子媒体使用に関わる規定など、以前働いていた会社でも読まされたり、渡されたりしたことのある書類ばかりだった。
俺は仕方なく、書類に目を通し始めた。
「早くサインをしなさい」
社長は言うと、俺にペンを手渡した。
「でも、まだ読んでないですから」
「後で読めばいい。人事部長だって、暇じゃないんだ。お前がそれを全部読み終わるまで待たせるつもりか? とにかく、早くサインをしなさい」
俺は言われるまま、中身も読まずに全てに『渡瀬幸多』とサインした。
これが、もし『中村幸多』だったら、俺は死んでも読み終わるまでサインをしなかったが、俺は幸いにも『渡瀬幸多』じゃないから、この書類にサインをしたことでトラブルに巻き込まれる心配はない。
「ありがとうございます。では、こちらがIDと初期パスワードになります。それから、こちらが、名刺になります」
人事部長は、A四サイズの紙を一枚と、紙でできた名刺の入った箱を俺に手渡した。
「ありがとう、安藤君」
「いえ、社長。では、これで失礼致します」
安藤君と呼ばれた人事部長は、一礼すると部屋から出ていった。
名刺の箱を開けてみると、やはり名刺は『渡瀬幸多』の名刺だった。しかも、そこには『社長室付戦略本部係長』と書かれていた。
『係長』って、俺が? 自動車の組み立てをして、定食屋でバイトして、スーパーのパートしてた俺が『係長』って、俺じゃないか。俺は死んでも中村幸多だもんな。
「渡瀬幸多。今日からは、それがお前の名前だ。お前は、社長室付戦略本部係長ということにしてある」
してあると言われても、ここに俺のできる仕事があるとは思えない。
「戦略本部は、社内の色々な部門のメンバーが集まって構成されている。お前はそこの係長として、会議の内容をまとめたり、資料を作成したり、社長室付きとして参加し、私に報告するのが仕事だ」
社長はまるで、それが誰でもできる仕事のように言いきった。
「あの、俺、パソコンとか、使えないですけど」
俺が言うと、社長は驚いたように目を見張った。
「パソコンが使えない?」
それば、まるで宇宙人を見るような目つきだった。
「はい、つかえません。インターネットくらいはできますけど。ネットカフェで仕事探すのに使いましたから」
俺は正直に言った。
「WORDは? EXCELは? パワポは?」
社長の言葉は、まるで暗号のようだった。
「それ、何ですか?」
「ワープロソフトと表計算ソフトに、プレゼン用のソフトだ」
「使ったことないです。プレゼント用って、何プレゼントするんですか?」
俺の言葉に社長は愕然として、俺のことを見る目がどんどん冷たくなっていった。それは、まるで俺が人間以下の知能しか持ち合わせていない、知能に欠陥のある生き物であるかのような、蔑むような、冷たい目だった。
そう、俺はこの人の望む息子にはなれない。この人にとっては、俺は汚いブルーワーカーで、油まみれになって、汚れ仕事をして、スーツなんて着る必要のない仕事しかできない、人以下の生き物でしかないんだ。
「仕方ないな。秘書の五十嵐君に頼んで、パソコンの使い方を教えてもらうか・・・・・・。いや、とりあえず、パソコン教室に行きなさい」
社長は言うと、携帯で秘書を呼びつけ、パソコン教室の手配をさせた。
「パソコンが使えるようになるまでは、会社に来なくてもいい。ただし、毎日、家から教室に通って、一週間で使えるようになりなさい。まったく、この時代にパソコンが使えないなんて・・・・・・」
社長はブツブツと何かつぶやいていたが、俺は気にも留めなかった。
そうしていると、再びノックの音がして、秘書の五十嵐さんが入ってきた。
五十嵐さんは、すらりとした小綺麗な女性だった。でも、きっとサチがこんな素敵なスーツを着たら、五十嵐さんよりももっと綺麗で素敵だろうと俺は思った。それと同時に、サチにはこんなスーツを着る世界には行って欲しくないとも思った。なぜなら、五十嵐さんは俺に美月を思い出させたからだ。
「社長、携帯端末が届きました」
五十嵐さんは言うと、小さな箱を俺の前に置いた。
「設定は全て終わっているので、すぐ使用できるそうです」
「わかった。ありがとう」
社長は言うと、俺の前に置かれた箱を開け、中からピカピカのスマートフォンを取り出した。それは、この間サチとPHSを買いに行った時、店に飾られていた『最新モデル』だか『最高峰』だかって謳い文句が貼られて、一段高い場所に飾られていたものだった。
「いまは、ずいぶん便利になったよ。これがあれば、メールもできるし、スケジュールも確認できるし、電話もできる」
社長は言うと、俺にその超高価な端末を手渡した。
「携帯は使えるんだろ?」
社長の問いに、俺は頭を横に振った。
「なんだって?」
今度こそ、父と言う人は、俺を連れてきたことを後悔したようだった。
「携帯は高いから、持っていません」
事実だ。俺が持っているのは、携帯電話じゃなくて、PHSと言うものだ。違いはよくわからないけれど、それは形が似ているだけで違うものだと店員が言っていた。
「まったく」
呆れたように言う社長に、俺はすべてを放り出してサチのところに帰りたくなった。
確かに、街をあるけば、猫も杓子もみんな携帯電話を持っているし、大勢じゃないがスマートフォンとか言われるものを持っている人も見かける。でも、それは、俺たちとは違い世界に住んでいる人たちの事だ。俺たちは、必死に働いて、お金をためて、やっとのことでPHSを買って、それでも幸せなんだ。携帯電話もスマートフォンも、パソコンも俺たちの生活には必要ない。なくたって、俺たちはちゃんと仕事をしてるし、生きてるんだ!
「とりあえず、今日はマニュアルを読んで、自分のメールのチェックとスケジュールの管理ができるようになりなさい。私は会議があるから席を外すが、お前はこの部屋から出ないように」
社長は言うと、俺を置いて部屋から出ていった。
俺は隠しておいたPHSを取り出すと電源を入れた。
PHSはブルリと震え、サチからメールが入っていた。
『大将には風邪で咳が止まらないって話してあるから心配しないで。コータの帰りを待ってるからね。サチ』
サチが待っていてくれる。それだけで俺は幸せだった。
『よくわからないけど、パソコン教室に一週間行けって言われた。でも、なんとか逃げて帰るつもり。サチ、愛してる』
俺はメールを送ると、素早くPHSの電源を切った。
それから、言われた通り銀色に輝くスマートフォンの分厚いマニュアルを読み始めた。
☆☆☆
でも、次の瞬間、それは俺の方を向いたのではなく、俺の前を歩く、俺の父だという人の方を皆が振り向いたのだと気づいた。
確か、こういうのを『虎の威を借る狐』の図っていうんだよな、なんて考えながら、俺はただ言われるままに従ってエレベーターに乗り、言われるままに父だという人の後に続いて大きな部屋に入った。
窓側に置かれたどっしりとした机、壁を覆う飾り棚と美術の時間に見たことのあるような絵画の飾られた部屋には、入ってすぐのところに黒い革張りの応接セットが置かれていた。
ピカピカ光る革の美しさに、俺は思わず見とれてしまった。
「なにをボサっと突っ立ってるんだ、早く座りなさい」
机寄りの一人掛けソファーに座った父だという人に言われ、俺は向かい側の二人掛けのソファーに腰を下ろした。
「いま、人事部長が来る」
人事部長? 何のために? 俺は聞きたかったが、何も言わずに堪えた。
ノックの後、すらりとした小綺麗な女性が人事部長の到着を告げ、中肉中背の男性が入ってきた。歳は四十代後半から五十代位で、仕立てのいい、いかにもどこかのブランドものですという感じのスーツを着こなしていた。
「社長、大変お待たせいたしました」
人事部長が言うと、社長と呼ばれた、父だという人は、人事部長に座るように合図した。
「紹介しよう。これが、私の愚息だ」
愚息? 冗談じゃない。『母さんは、死ぬ間際まで、俺のことを立派な息子だと言ってくれたのに、会ってと言うよりも、いきなり拉致してこんなところまで連れて来たあんたの方が、愚父だろ』と言う言葉が、喉をついて出そうになったが、俺は必死に言葉を飲み込んだ。
「こちらが、書類になります。経歴に間違いがないか、ご確認いただけますか?」
人事部長が差し出した履歴書には、『渡瀬幸多』と書かれており、どうやって調べたのか、俺の生年月日から卒業した学校、以前働いて会社の名前や働いていた期間まで書かれていた。
「あの、名前が違います。自分は、中村幸多です」
俺が言うと、人事部長は困ったように社長の方を向いた。
「まだ、いろいろと戸籍の方が整っていないので、今は中村だが、すぐに渡瀬になるから、社内では渡瀬で通してくれて構わない」
「かしこまりました。では、こちらの書類に目を通して戴き、署名は中村ではなく、渡瀬幸多でお願いいたします」
人事部長は言うと、書類を何枚も手渡してきた。
秘密保持に関わる同意書、新入社員向け社内IDの使用に関する規定、行動規範、電子媒体使用に関わる規定など、以前働いていた会社でも読まされたり、渡されたりしたことのある書類ばかりだった。
俺は仕方なく、書類に目を通し始めた。
「早くサインをしなさい」
社長は言うと、俺にペンを手渡した。
「でも、まだ読んでないですから」
「後で読めばいい。人事部長だって、暇じゃないんだ。お前がそれを全部読み終わるまで待たせるつもりか? とにかく、早くサインをしなさい」
俺は言われるまま、中身も読まずに全てに『渡瀬幸多』とサインした。
これが、もし『中村幸多』だったら、俺は死んでも読み終わるまでサインをしなかったが、俺は幸いにも『渡瀬幸多』じゃないから、この書類にサインをしたことでトラブルに巻き込まれる心配はない。
「ありがとうございます。では、こちらがIDと初期パスワードになります。それから、こちらが、名刺になります」
人事部長は、A四サイズの紙を一枚と、紙でできた名刺の入った箱を俺に手渡した。
「ありがとう、安藤君」
「いえ、社長。では、これで失礼致します」
安藤君と呼ばれた人事部長は、一礼すると部屋から出ていった。
名刺の箱を開けてみると、やはり名刺は『渡瀬幸多』の名刺だった。しかも、そこには『社長室付戦略本部係長』と書かれていた。
『係長』って、俺が? 自動車の組み立てをして、定食屋でバイトして、スーパーのパートしてた俺が『係長』って、俺じゃないか。俺は死んでも中村幸多だもんな。
「渡瀬幸多。今日からは、それがお前の名前だ。お前は、社長室付戦略本部係長ということにしてある」
してあると言われても、ここに俺のできる仕事があるとは思えない。
「戦略本部は、社内の色々な部門のメンバーが集まって構成されている。お前はそこの係長として、会議の内容をまとめたり、資料を作成したり、社長室付きとして参加し、私に報告するのが仕事だ」
社長はまるで、それが誰でもできる仕事のように言いきった。
「あの、俺、パソコンとか、使えないですけど」
俺が言うと、社長は驚いたように目を見張った。
「パソコンが使えない?」
それば、まるで宇宙人を見るような目つきだった。
「はい、つかえません。インターネットくらいはできますけど。ネットカフェで仕事探すのに使いましたから」
俺は正直に言った。
「WORDは? EXCELは? パワポは?」
社長の言葉は、まるで暗号のようだった。
「それ、何ですか?」
「ワープロソフトと表計算ソフトに、プレゼン用のソフトだ」
「使ったことないです。プレゼント用って、何プレゼントするんですか?」
俺の言葉に社長は愕然として、俺のことを見る目がどんどん冷たくなっていった。それは、まるで俺が人間以下の知能しか持ち合わせていない、知能に欠陥のある生き物であるかのような、蔑むような、冷たい目だった。
そう、俺はこの人の望む息子にはなれない。この人にとっては、俺は汚いブルーワーカーで、油まみれになって、汚れ仕事をして、スーツなんて着る必要のない仕事しかできない、人以下の生き物でしかないんだ。
「仕方ないな。秘書の五十嵐君に頼んで、パソコンの使い方を教えてもらうか・・・・・・。いや、とりあえず、パソコン教室に行きなさい」
社長は言うと、携帯で秘書を呼びつけ、パソコン教室の手配をさせた。
「パソコンが使えるようになるまでは、会社に来なくてもいい。ただし、毎日、家から教室に通って、一週間で使えるようになりなさい。まったく、この時代にパソコンが使えないなんて・・・・・・」
社長はブツブツと何かつぶやいていたが、俺は気にも留めなかった。
そうしていると、再びノックの音がして、秘書の五十嵐さんが入ってきた。
五十嵐さんは、すらりとした小綺麗な女性だった。でも、きっとサチがこんな素敵なスーツを着たら、五十嵐さんよりももっと綺麗で素敵だろうと俺は思った。それと同時に、サチにはこんなスーツを着る世界には行って欲しくないとも思った。なぜなら、五十嵐さんは俺に美月を思い出させたからだ。
「社長、携帯端末が届きました」
五十嵐さんは言うと、小さな箱を俺の前に置いた。
「設定は全て終わっているので、すぐ使用できるそうです」
「わかった。ありがとう」
社長は言うと、俺の前に置かれた箱を開け、中からピカピカのスマートフォンを取り出した。それは、この間サチとPHSを買いに行った時、店に飾られていた『最新モデル』だか『最高峰』だかって謳い文句が貼られて、一段高い場所に飾られていたものだった。
「いまは、ずいぶん便利になったよ。これがあれば、メールもできるし、スケジュールも確認できるし、電話もできる」
社長は言うと、俺にその超高価な端末を手渡した。
「携帯は使えるんだろ?」
社長の問いに、俺は頭を横に振った。
「なんだって?」
今度こそ、父と言う人は、俺を連れてきたことを後悔したようだった。
「携帯は高いから、持っていません」
事実だ。俺が持っているのは、携帯電話じゃなくて、PHSと言うものだ。違いはよくわからないけれど、それは形が似ているだけで違うものだと店員が言っていた。
「まったく」
呆れたように言う社長に、俺はすべてを放り出してサチのところに帰りたくなった。
確かに、街をあるけば、猫も杓子もみんな携帯電話を持っているし、大勢じゃないがスマートフォンとか言われるものを持っている人も見かける。でも、それは、俺たちとは違い世界に住んでいる人たちの事だ。俺たちは、必死に働いて、お金をためて、やっとのことでPHSを買って、それでも幸せなんだ。携帯電話もスマートフォンも、パソコンも俺たちの生活には必要ない。なくたって、俺たちはちゃんと仕事をしてるし、生きてるんだ!
「とりあえず、今日はマニュアルを読んで、自分のメールのチェックとスケジュールの管理ができるようになりなさい。私は会議があるから席を外すが、お前はこの部屋から出ないように」
社長は言うと、俺を置いて部屋から出ていった。
俺は隠しておいたPHSを取り出すと電源を入れた。
PHSはブルリと震え、サチからメールが入っていた。
『大将には風邪で咳が止まらないって話してあるから心配しないで。コータの帰りを待ってるからね。サチ』
サチが待っていてくれる。それだけで俺は幸せだった。
『よくわからないけど、パソコン教室に一週間行けって言われた。でも、なんとか逃げて帰るつもり。サチ、愛してる』
俺はメールを送ると、素早くPHSの電源を切った。
それから、言われた通り銀色に輝くスマートフォンの分厚いマニュアルを読み始めた。
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