君のいた時を愛して~ I Love You ~
八
目が醒めると、静かな寝息を立てるサチが俺の腕の中にいた。ぎゅっと抱きしめたいという愛しさと、サチに自分勝手な思いを押し付けてはいけないという、二人の俺が熱の冷めきらない頭の中で戦いを始めた。
実際、ぎゅっと抱きしめられているのは俺の方で、それはサチの体に腕を回すかどうかという簡単で単純な事なのに、俺にとっては『生きるか死ぬか』それとも『プロポーズするか延期するか』というような、究極の選択のように感じられた。そう、いまサチの体に腕を回してしまったら、確実に俺とサチの関係が今までとは変わってしまうと、俺は確信していた。
今までの俺とサチは、ただの同居人であって恋人ではない。友達ではあるが、でもそれ以上ではない。でも、いま俺に縋りつくように俺の体に腕を回しているサチを抱きしめたら、その関係は変わってしまう。俺とサチは友達でも同居人でもなくなる。それは、簡単な喧嘩や、些細な相手に対する失望の積み重ねで簡単に終わってしまう、脆い『恋人』という関係になってしまう。
美月との恋の痛手と、女性に対する失望から、俺はサチと恋人関係になることを正直ずっと恐れていた。
サチがそれとなく向けてくる、熱っぽい瞳も、腰を下ろした後にほんの少しだけ体を寄せて距離を縮めてくるのも、すべてサチが俺に対して友達以上の感情を持ち始めている事を俺は気付いていたが、サチの前では気づかないふりをし続けてきた。
食器を買う時、ペアにしたのは単に簡単に二つの器を手に入れるだけだったけれど、それを毎日使っているうちに、あうんの呼吸で会話が成り立つようになっていくうちに、サチの気持ちが少しずつ、友達から変わって行っている事を俺は感じていた。
銭湯の帰り、少し距離を置いて歩いていたサチが、俺の腕に自分の腕を絡めるようになっても、俺はサチの気持ちを黙殺し続けた。
理由は簡単だ。もう、美月との失敗を繰り返したくなかったから。
俺には、結婚して誰かを養うような力はない。結婚して、誰かの人生に重大な影響を与え、その人生の重荷を分け合うような覚悟もない。
こんな貧しさの中で、今は良くても、いずれサチだって貧しさに疲れ、俺から離れていくことは目に見えている。それなら、淡い期待なんて、持たない方が良い。お互いにとって、それが一番いい事なんだ。
俺は考えた末、サチを抱きしめようとしていた右腕を敢えて自分の背中に回し、左腕を枕の上に移動させた。
俺の動きにサチが目を開けた。
「コータ、少しは具合良くなった? 寒くない?」
「大丈夫。あったかいよ」
サチのおかげで、氷のように冷たかった身体はポカポカと温かく、ついでにサチの柔らかい女性の体を感じて、男の本能も目覚めかけたようで、思いのほか血の巡りは良い。
「まだ、熱があるね」
俺の背中に回していた手で額に触り、サチが言った。
「そうかな」
とぼけてみたもののの、実際、身体はまだ熱く、頭はぼーっとしている。
「あ、お水のまないと」
サチは言うと、するりと布団の中から抜け出し、冷蔵庫の中からドリンクボトルに入った水を持ってきてくれる。
氷のように冷たい水が乾いた喉を通り過ぎ、熱く燃えるような体の芯に吸い込まれていく。
ゴクリ、ゴクリと、俺は何度も水を飲み込んだ。冷たい水の塊が体の奥の熱を吸い込んで消えていく感じが気持ちよく、俺はドリンクボトルの中の水を一気に飲み干した。
「よかった。脱水症状は体に良くないからね」
サチは嬉しそうに言うと、空のドリンクボトルを受け取り、丁寧に洗ってからあげざる替わりのざるの中に干してベッドに戻ってきた。
さっきまで暖かかったサチの体は、外気のせいで冷たくなって、サチ自身少し震えていた。
「ごめんね、コータ。私の体が冷たいから、寒くなっちゃうよね」
サチは言うと、俺の体に体がくっつかないように、狭いベッドの端に体を寄せる。
「サチの体、冷たくて気持ちがいい」
自分の体の熱を持て余していた俺は、思わず本音を口にしてしまう。
言ってしまったから、それがサチの体が恋しいという意味だと自分で気付き、なんとか取り繕うとしたが、それよりも早くサチが俺に体を預けた。
するりと回される細い腕と、その柔らかな感触。
俺はサチの細くて小さな体をしっかりと抱きしめた。
「ありがとう、コータ」
サチが泣きそうな声で言った。
「私ね、ずっと怖かったの」
『何が?』と聞き返したかったが、熱にうなされた頭は思うように回らない。
「コータ、私に触ろうとか、全然しなかったでしょ。だから、すごく怖かった」
熱でぼんやりとしているとはいえ、サチの言葉の意味が理解できず、俺はただサチの言葉に耳を傾けた。
「コータは、私の事、すごく汚れた女だって思ってるんじゃないかって、お金で体を開く汚い女だって、コータに思われてるんじゃないかって、ずっと怖かった。きっと、男のコータには分からないと思う。でも、いきなり部屋に連れ込まれて襲われるより、毎日一緒に暮らしているコータから、汚い女だって、穢れた人間だって思われているんじゃないかって思う方が、ずっと苦しくて、悲しくて、切なくて・・・・・・。いつかコータに、何時まで待っても、俺はお金払ったりしないから、そろそろ出て行ったらどうだって言われるんじゃないかって、ずっとずっとずっと、不安で怖かった。だから、コータの体を温めようとした時、コータに拒否されて、コータに触れされてもらえなかったらどうしようって、すごく怖かった」
サチは言いながら、大粒の涙を流し続けた。
「サチ、俺はサチの事、大切に思ってる。ありがとう」
もっとサチを力づけることが言ってやりたかった。もっと、サチに怖がる必要なんてないって説明してやりたかった。それでも、俺は睡魔に襲われ、サチの名を呼びながら、眠りに落ちて行った。
実際、ぎゅっと抱きしめられているのは俺の方で、それはサチの体に腕を回すかどうかという簡単で単純な事なのに、俺にとっては『生きるか死ぬか』それとも『プロポーズするか延期するか』というような、究極の選択のように感じられた。そう、いまサチの体に腕を回してしまったら、確実に俺とサチの関係が今までとは変わってしまうと、俺は確信していた。
今までの俺とサチは、ただの同居人であって恋人ではない。友達ではあるが、でもそれ以上ではない。でも、いま俺に縋りつくように俺の体に腕を回しているサチを抱きしめたら、その関係は変わってしまう。俺とサチは友達でも同居人でもなくなる。それは、簡単な喧嘩や、些細な相手に対する失望の積み重ねで簡単に終わってしまう、脆い『恋人』という関係になってしまう。
美月との恋の痛手と、女性に対する失望から、俺はサチと恋人関係になることを正直ずっと恐れていた。
サチがそれとなく向けてくる、熱っぽい瞳も、腰を下ろした後にほんの少しだけ体を寄せて距離を縮めてくるのも、すべてサチが俺に対して友達以上の感情を持ち始めている事を俺は気付いていたが、サチの前では気づかないふりをし続けてきた。
食器を買う時、ペアにしたのは単に簡単に二つの器を手に入れるだけだったけれど、それを毎日使っているうちに、あうんの呼吸で会話が成り立つようになっていくうちに、サチの気持ちが少しずつ、友達から変わって行っている事を俺は感じていた。
銭湯の帰り、少し距離を置いて歩いていたサチが、俺の腕に自分の腕を絡めるようになっても、俺はサチの気持ちを黙殺し続けた。
理由は簡単だ。もう、美月との失敗を繰り返したくなかったから。
俺には、結婚して誰かを養うような力はない。結婚して、誰かの人生に重大な影響を与え、その人生の重荷を分け合うような覚悟もない。
こんな貧しさの中で、今は良くても、いずれサチだって貧しさに疲れ、俺から離れていくことは目に見えている。それなら、淡い期待なんて、持たない方が良い。お互いにとって、それが一番いい事なんだ。
俺は考えた末、サチを抱きしめようとしていた右腕を敢えて自分の背中に回し、左腕を枕の上に移動させた。
俺の動きにサチが目を開けた。
「コータ、少しは具合良くなった? 寒くない?」
「大丈夫。あったかいよ」
サチのおかげで、氷のように冷たかった身体はポカポカと温かく、ついでにサチの柔らかい女性の体を感じて、男の本能も目覚めかけたようで、思いのほか血の巡りは良い。
「まだ、熱があるね」
俺の背中に回していた手で額に触り、サチが言った。
「そうかな」
とぼけてみたもののの、実際、身体はまだ熱く、頭はぼーっとしている。
「あ、お水のまないと」
サチは言うと、するりと布団の中から抜け出し、冷蔵庫の中からドリンクボトルに入った水を持ってきてくれる。
氷のように冷たい水が乾いた喉を通り過ぎ、熱く燃えるような体の芯に吸い込まれていく。
ゴクリ、ゴクリと、俺は何度も水を飲み込んだ。冷たい水の塊が体の奥の熱を吸い込んで消えていく感じが気持ちよく、俺はドリンクボトルの中の水を一気に飲み干した。
「よかった。脱水症状は体に良くないからね」
サチは嬉しそうに言うと、空のドリンクボトルを受け取り、丁寧に洗ってからあげざる替わりのざるの中に干してベッドに戻ってきた。
さっきまで暖かかったサチの体は、外気のせいで冷たくなって、サチ自身少し震えていた。
「ごめんね、コータ。私の体が冷たいから、寒くなっちゃうよね」
サチは言うと、俺の体に体がくっつかないように、狭いベッドの端に体を寄せる。
「サチの体、冷たくて気持ちがいい」
自分の体の熱を持て余していた俺は、思わず本音を口にしてしまう。
言ってしまったから、それがサチの体が恋しいという意味だと自分で気付き、なんとか取り繕うとしたが、それよりも早くサチが俺に体を預けた。
するりと回される細い腕と、その柔らかな感触。
俺はサチの細くて小さな体をしっかりと抱きしめた。
「ありがとう、コータ」
サチが泣きそうな声で言った。
「私ね、ずっと怖かったの」
『何が?』と聞き返したかったが、熱にうなされた頭は思うように回らない。
「コータ、私に触ろうとか、全然しなかったでしょ。だから、すごく怖かった」
熱でぼんやりとしているとはいえ、サチの言葉の意味が理解できず、俺はただサチの言葉に耳を傾けた。
「コータは、私の事、すごく汚れた女だって思ってるんじゃないかって、お金で体を開く汚い女だって、コータに思われてるんじゃないかって、ずっと怖かった。きっと、男のコータには分からないと思う。でも、いきなり部屋に連れ込まれて襲われるより、毎日一緒に暮らしているコータから、汚い女だって、穢れた人間だって思われているんじゃないかって思う方が、ずっと苦しくて、悲しくて、切なくて・・・・・・。いつかコータに、何時まで待っても、俺はお金払ったりしないから、そろそろ出て行ったらどうだって言われるんじゃないかって、ずっとずっとずっと、不安で怖かった。だから、コータの体を温めようとした時、コータに拒否されて、コータに触れされてもらえなかったらどうしようって、すごく怖かった」
サチは言いながら、大粒の涙を流し続けた。
「サチ、俺はサチの事、大切に思ってる。ありがとう」
もっとサチを力づけることが言ってやりたかった。もっと、サチに怖がる必要なんてないって説明してやりたかった。それでも、俺は睡魔に襲われ、サチの名を呼びながら、眠りに落ちて行った。