休みの日〜その夢と、さよならの向こう側には〜
32.嘘
車で向かったのは、百円のお寿司を食べることができる回転寿司だ。久しぶりのデートだから、もう少し値段の高い場所でもいいかと思ったが、値段が上がれば上がるほど奢ると言った時に梓が気を使うと思ったため、安いお店にした。今はいつもの精神状態ではないから、余計な気を使わせたくはない。
店員さんにテーブル席へと案内されると、梓はすぐにタッチパネルの操作を始める。そしてサーモンのサビありを四回タップした。初めは僕の分も頼んでくれたのかと思ったけれど、違った。
「悠くんは何食べる?」
「あ、じゃあ僕、ハマチ二皿で」
僕の注文を聞くと、梓はハマチ二皿を追加して注文してくれた。それからお茶の粉末をコップの中に入れて、二人分の緑茶を作ってくれる。
「ありがと。梓はサーモンが好きなんだね」
何気なくそう訊くと、梓は注文したサーモンのように顔を赤らめた。
「ごめんいつもの癖で……」
「よく来るんだ?」
「うん、渚ちゃんと……」
それならば、おそらく荒井さんも最初は驚いていたのかもしれない。
「まあ、今日は遠慮なく注文してよ。全部僕が払うから」
そんな僕の言葉に、お茶を飲んでいた梓は目を丸める。
「えっ?!」
「この前のお礼だよ」
「この前?」
ここ最近の出来事を思い返しているのであろう梓は、湯呑みを持ったまま首をかしげる。
「ほら、失恋した時に慰めてくれたじゃん。その時、梓が奢ってくれるって言ったから」
「あぁ……」
ようやく納得したように頷いた梓は、またすぐに顔を赤くした。コロコロ変わる彼女の表情を見ているのは面白い。
「って、私酔っ払っててお金払ってない」
「覚えてたんだ」
「そこだけ、薄っすらと……やっぱり今日は私が払うね」
「でも、あの時誘ってくれてなかったら、たぶんいつまでも引きずってたと思うんだ」
梓が話を聞いてくれなければ、おそらく今も水無月への思いを募らせていた。そんな僕を前向きにしてくれたのが、目の前で恥ずかしげな表情を浮かべる梓だ。
「それと、今日は付き合い始めて二ヶ月目だから。記念日だし、やっぱり僕が奢るよ」
「あっ……」
すっかり忘れていたのか、梓はハッとした表情を浮かべる。最近はずっと絵に向き合っていたから、忘れていても無理はない。
「ごめん……そんな大事なこと忘れてた……」
「ううん。一ヶ月目もお祝いしてないし、奢るための口実みたいなものだから。今日だけは彼氏っぽいことさせてよ」
そうやって色々と理由をこじつけていると、ようやく梓は頷いてくれた。強引だったかもしれないが、本当に彼氏っぽいことをしてあげられていないから仕方がない。キスだって、あの不意打ちにされた時以来一度もしていない。それは、僕が奥手だから。恋愛の駆け引きなんてわからないし、そもそも勇気がない。こんなんじゃ、いつか本当に梓に愛想を尽かされそうだ。
そういうことを考えていると、彼女は湯飲みに口をつけながら、すねたように呟いた。
「別に、一緒にいてくれるだけで私は嬉しいのに……」
そんな彼女の嬉しい言葉に、僕は胸が熱くなる。何か反応をするのも恥ずかしかったため、聞こえなかったふりをした。
それから頼んでいたお寿司がレーンの上から小型の新幹線によって運ばれてきて、僕たちはそれを食べ始める。少し、いつもより落ち込んでいるように見えた梓も、サーモンを口に運んで食べた瞬間、一気に口元をほころばせ幸せな表情を浮かべた。
ここまで来て絵の話をするのもどうかと思ったため、僕は別の話題を梓に振ることにした。
「十一月の学園祭、なんの曲を演奏するか決まってるの?」
梓はサーモンをのみ込んでから、最近流行りのガールズバンドの曲名を言った。彼女は音楽をよく聴くため、僕もフェスが終わってから積極的に調べるようにしている。そのため、梓の言った曲は僕も聴いたことがある曲だった。
「あの曲、すごくいいよね。片思いしてる女の子の、素直になれない気持ちが伝わってくるし」
「だよね! バンドのメンバーの人、みんなあの曲が好きなの。早く練習したいなぁ」
そう言いながら梓は、左手の指で弦を押さえる動作をする。もうある程度、指の動きを頭の中に入れているのかもしれない。
「でも楽しみだけど、ちょっと緊張もしてるの」
「どうして?」
「私、弾きながらボーカルもやることになってるから」
「うわ、それは大変だ」
「しかも、今回が初ステージ」
「それは緊張しちゃうね」
初ステージでギターとボーカルを任せてくれるということは、梓の技量を他のバンドメンバーが認めてくれているからなのだろう。
「頑張らないと、だね」
「うん」
「ステージの下から応援してるよ」
「ありがと」
嬉しそうに、梓は微笑む。おそらく学園祭の本番が近づくにつれて、練習量も増えていき一緒に会う時間も少なくなるのだろう。それはやっぱり悲しいが、彼氏として彼女のことを精一杯応援するべきだ。
けれどその間、何か梓に対してしてあげられることはないかと僕は悩む。そしてすぐに、十一月の二十四日は彼女の誕生日であることを思い出す。本格的に冷え込み始めるちょっと前。やがて冬が訪れた時に、梓が寒さで凍えてしまわないように、守ってあげられるものが必要だ。
僕が梓にしてあげられる、一番のこと。喜んでくれるかどうか、正直わからない。高校生の頃、水無月は泣くほど喜んでくれたけれど、一歩間違えれば重いと言って引かれていたかもしれない。
だけど、それでも梓に僕という人間を知ってほしかった。そして今までずっと黙ってきたことを話そうかなと、ようやく僕は心に決めた。
お寿司を食べ終わった僕らは、たわいない会話を交わしながら、遠回りをしてアトリエへと戻ってきた。梓は再び作業着へと着替え、後はひたすら絵に打ち込む。
相変わらずスランプで、思うように筆が進んでいなかったが、それでも梓はキャンバスに向き合い続けた。そして夏休み最終日の、午後二十二時。不甲斐なくも眠気でウトウトしていた僕は、彼女が筆をバケツの中に入れた音で、目を覚ました。僕の目の前には、あの日二人で見たひまわり畑が広がっている。
「もう、完成したの?」
わずかの間の後、梓はコクリと頷く。
「悠くんは、どう思う?」
「すごく、いいと思った。頑張ったね、梓」
本当に、長かった。時間のない中必死にスランプと戦って、彼女は一つの絵を仕上げることができた。この経験は、絶対にこれからの梓にとってプラスに働くだろう。どんなに辛い時でも、この夏休みの出来事を思い返せば、きっと折れずに立ち向かうことができる。
僕は頑張った梓のことを、抱きしめてあげたいと思った。けれど続く彼女の言葉で、僕の心は急速に冷やされていった。
「私も、これでいいと思う」
これで、いいと思う。よく梓の表情を見てみれば、やりきったという達成感というよりも、疲れて諦めたかのような表情をしていた。
違う。きっとこれはまだ完成じゃなくて、梓は妥協してしまっている。頑張って描いた作品を、これでいいと言って終わらせるわけがないのだから。
彼女は僕に聞いた。この絵を、どう思うかと。絵の知識のない僕に、意見を求めた。きっと、納得したかったのだろう。未完成だけれど、僕がいいと言えば完成だと。そう納得したかった。最後の瞬間に、梓は逃げたのだ。
そして、その逃げ道を作ってしまっていたのが、他ならぬ僕であることに気付いた。今までだって、課題を進めなきゃいけないのに、海へ行ってプールへ行って、映画を観に行っていた。僕が梓の目の前にいなければ、甘えさせていなければ、妥協なんてしなかったのかもしれない。春、初めて出会った時の梓は、間に合うか間に合わないかギリギリの時間まで、絵の制作に打ち込んでいたのだから。
このままじゃ、ダメだ。僕は立ち上がり、梓のことを見下ろす。そして冷たい声で、言った。
「僕、帰るよ」
そう告げると、梓も立ち上がって「すぐに着替えるから、ちょっと待ってて」と言い、慌てたように帰り支度を始める。
その背中に、僕はまた言った。
「本当に、これで完成でいいの?」
帰り支度をしていた梓の動きが、ピタリと止まる。こちらを振り向いた彼女の顔には、痛々しい笑みが張り付いていた。
「何言ってるの、もうこれで完成だよ?」
「見損なったよ」
それだけ言うと、僕は梓を置いて玄関へと歩き出す。その歩みを、彼女は僕の手を掴んで止めた。
「待って、悠くん……どうして、怒ってるの……?」
「こんなに頑張ったのに、最後に梓が嘘をついたからだよ」
「嘘……?」
「まだ、完成じゃないんでしょ?」
僕の言葉を聞いた梓の瞳は、図星だと言わんばかりに大きく見開かれる。
「僕がいるのは邪魔だと思うから、残りの時間を使って一人で描いてよ。もう、戻ってこないから」
梓の手を振りほどいて、僕はまた歩き出す。力なく彼女が床に膝をついた音が聞こえたけれど、無視した。ここで振り返ってしまえば、僕は梓のことを許してしまいそうだったから。すぐに駆け寄って、抱きしめて、謝ってしまう。そんな甘い展開は許されない。ここで妥協を許してしまえば、今まで頑張ってきた梓の頑張りを全て否定することになってしまうから。
僕は一人で、アトリエを出た。部屋の中から彼女の泣き声が聞こえてきて、胸が張り裂けてしまいそうなほど強く痛む。
一度溢れ出した涙は、止めることができなかった。梓を傷つけてしまった罪悪感と、傷つけることしかできなかった不甲斐なさが僕の心を苛む。
梓の泣き声は、いつまでたっても僕の耳から消えてくれることはなかった。
店員さんにテーブル席へと案内されると、梓はすぐにタッチパネルの操作を始める。そしてサーモンのサビありを四回タップした。初めは僕の分も頼んでくれたのかと思ったけれど、違った。
「悠くんは何食べる?」
「あ、じゃあ僕、ハマチ二皿で」
僕の注文を聞くと、梓はハマチ二皿を追加して注文してくれた。それからお茶の粉末をコップの中に入れて、二人分の緑茶を作ってくれる。
「ありがと。梓はサーモンが好きなんだね」
何気なくそう訊くと、梓は注文したサーモンのように顔を赤らめた。
「ごめんいつもの癖で……」
「よく来るんだ?」
「うん、渚ちゃんと……」
それならば、おそらく荒井さんも最初は驚いていたのかもしれない。
「まあ、今日は遠慮なく注文してよ。全部僕が払うから」
そんな僕の言葉に、お茶を飲んでいた梓は目を丸める。
「えっ?!」
「この前のお礼だよ」
「この前?」
ここ最近の出来事を思い返しているのであろう梓は、湯呑みを持ったまま首をかしげる。
「ほら、失恋した時に慰めてくれたじゃん。その時、梓が奢ってくれるって言ったから」
「あぁ……」
ようやく納得したように頷いた梓は、またすぐに顔を赤くした。コロコロ変わる彼女の表情を見ているのは面白い。
「って、私酔っ払っててお金払ってない」
「覚えてたんだ」
「そこだけ、薄っすらと……やっぱり今日は私が払うね」
「でも、あの時誘ってくれてなかったら、たぶんいつまでも引きずってたと思うんだ」
梓が話を聞いてくれなければ、おそらく今も水無月への思いを募らせていた。そんな僕を前向きにしてくれたのが、目の前で恥ずかしげな表情を浮かべる梓だ。
「それと、今日は付き合い始めて二ヶ月目だから。記念日だし、やっぱり僕が奢るよ」
「あっ……」
すっかり忘れていたのか、梓はハッとした表情を浮かべる。最近はずっと絵に向き合っていたから、忘れていても無理はない。
「ごめん……そんな大事なこと忘れてた……」
「ううん。一ヶ月目もお祝いしてないし、奢るための口実みたいなものだから。今日だけは彼氏っぽいことさせてよ」
そうやって色々と理由をこじつけていると、ようやく梓は頷いてくれた。強引だったかもしれないが、本当に彼氏っぽいことをしてあげられていないから仕方がない。キスだって、あの不意打ちにされた時以来一度もしていない。それは、僕が奥手だから。恋愛の駆け引きなんてわからないし、そもそも勇気がない。こんなんじゃ、いつか本当に梓に愛想を尽かされそうだ。
そういうことを考えていると、彼女は湯飲みに口をつけながら、すねたように呟いた。
「別に、一緒にいてくれるだけで私は嬉しいのに……」
そんな彼女の嬉しい言葉に、僕は胸が熱くなる。何か反応をするのも恥ずかしかったため、聞こえなかったふりをした。
それから頼んでいたお寿司がレーンの上から小型の新幹線によって運ばれてきて、僕たちはそれを食べ始める。少し、いつもより落ち込んでいるように見えた梓も、サーモンを口に運んで食べた瞬間、一気に口元をほころばせ幸せな表情を浮かべた。
ここまで来て絵の話をするのもどうかと思ったため、僕は別の話題を梓に振ることにした。
「十一月の学園祭、なんの曲を演奏するか決まってるの?」
梓はサーモンをのみ込んでから、最近流行りのガールズバンドの曲名を言った。彼女は音楽をよく聴くため、僕もフェスが終わってから積極的に調べるようにしている。そのため、梓の言った曲は僕も聴いたことがある曲だった。
「あの曲、すごくいいよね。片思いしてる女の子の、素直になれない気持ちが伝わってくるし」
「だよね! バンドのメンバーの人、みんなあの曲が好きなの。早く練習したいなぁ」
そう言いながら梓は、左手の指で弦を押さえる動作をする。もうある程度、指の動きを頭の中に入れているのかもしれない。
「でも楽しみだけど、ちょっと緊張もしてるの」
「どうして?」
「私、弾きながらボーカルもやることになってるから」
「うわ、それは大変だ」
「しかも、今回が初ステージ」
「それは緊張しちゃうね」
初ステージでギターとボーカルを任せてくれるということは、梓の技量を他のバンドメンバーが認めてくれているからなのだろう。
「頑張らないと、だね」
「うん」
「ステージの下から応援してるよ」
「ありがと」
嬉しそうに、梓は微笑む。おそらく学園祭の本番が近づくにつれて、練習量も増えていき一緒に会う時間も少なくなるのだろう。それはやっぱり悲しいが、彼氏として彼女のことを精一杯応援するべきだ。
けれどその間、何か梓に対してしてあげられることはないかと僕は悩む。そしてすぐに、十一月の二十四日は彼女の誕生日であることを思い出す。本格的に冷え込み始めるちょっと前。やがて冬が訪れた時に、梓が寒さで凍えてしまわないように、守ってあげられるものが必要だ。
僕が梓にしてあげられる、一番のこと。喜んでくれるかどうか、正直わからない。高校生の頃、水無月は泣くほど喜んでくれたけれど、一歩間違えれば重いと言って引かれていたかもしれない。
だけど、それでも梓に僕という人間を知ってほしかった。そして今までずっと黙ってきたことを話そうかなと、ようやく僕は心に決めた。
お寿司を食べ終わった僕らは、たわいない会話を交わしながら、遠回りをしてアトリエへと戻ってきた。梓は再び作業着へと着替え、後はひたすら絵に打ち込む。
相変わらずスランプで、思うように筆が進んでいなかったが、それでも梓はキャンバスに向き合い続けた。そして夏休み最終日の、午後二十二時。不甲斐なくも眠気でウトウトしていた僕は、彼女が筆をバケツの中に入れた音で、目を覚ました。僕の目の前には、あの日二人で見たひまわり畑が広がっている。
「もう、完成したの?」
わずかの間の後、梓はコクリと頷く。
「悠くんは、どう思う?」
「すごく、いいと思った。頑張ったね、梓」
本当に、長かった。時間のない中必死にスランプと戦って、彼女は一つの絵を仕上げることができた。この経験は、絶対にこれからの梓にとってプラスに働くだろう。どんなに辛い時でも、この夏休みの出来事を思い返せば、きっと折れずに立ち向かうことができる。
僕は頑張った梓のことを、抱きしめてあげたいと思った。けれど続く彼女の言葉で、僕の心は急速に冷やされていった。
「私も、これでいいと思う」
これで、いいと思う。よく梓の表情を見てみれば、やりきったという達成感というよりも、疲れて諦めたかのような表情をしていた。
違う。きっとこれはまだ完成じゃなくて、梓は妥協してしまっている。頑張って描いた作品を、これでいいと言って終わらせるわけがないのだから。
彼女は僕に聞いた。この絵を、どう思うかと。絵の知識のない僕に、意見を求めた。きっと、納得したかったのだろう。未完成だけれど、僕がいいと言えば完成だと。そう納得したかった。最後の瞬間に、梓は逃げたのだ。
そして、その逃げ道を作ってしまっていたのが、他ならぬ僕であることに気付いた。今までだって、課題を進めなきゃいけないのに、海へ行ってプールへ行って、映画を観に行っていた。僕が梓の目の前にいなければ、甘えさせていなければ、妥協なんてしなかったのかもしれない。春、初めて出会った時の梓は、間に合うか間に合わないかギリギリの時間まで、絵の制作に打ち込んでいたのだから。
このままじゃ、ダメだ。僕は立ち上がり、梓のことを見下ろす。そして冷たい声で、言った。
「僕、帰るよ」
そう告げると、梓も立ち上がって「すぐに着替えるから、ちょっと待ってて」と言い、慌てたように帰り支度を始める。
その背中に、僕はまた言った。
「本当に、これで完成でいいの?」
帰り支度をしていた梓の動きが、ピタリと止まる。こちらを振り向いた彼女の顔には、痛々しい笑みが張り付いていた。
「何言ってるの、もうこれで完成だよ?」
「見損なったよ」
それだけ言うと、僕は梓を置いて玄関へと歩き出す。その歩みを、彼女は僕の手を掴んで止めた。
「待って、悠くん……どうして、怒ってるの……?」
「こんなに頑張ったのに、最後に梓が嘘をついたからだよ」
「嘘……?」
「まだ、完成じゃないんでしょ?」
僕の言葉を聞いた梓の瞳は、図星だと言わんばかりに大きく見開かれる。
「僕がいるのは邪魔だと思うから、残りの時間を使って一人で描いてよ。もう、戻ってこないから」
梓の手を振りほどいて、僕はまた歩き出す。力なく彼女が床に膝をついた音が聞こえたけれど、無視した。ここで振り返ってしまえば、僕は梓のことを許してしまいそうだったから。すぐに駆け寄って、抱きしめて、謝ってしまう。そんな甘い展開は許されない。ここで妥協を許してしまえば、今まで頑張ってきた梓の頑張りを全て否定することになってしまうから。
僕は一人で、アトリエを出た。部屋の中から彼女の泣き声が聞こえてきて、胸が張り裂けてしまいそうなほど強く痛む。
一度溢れ出した涙は、止めることができなかった。梓を傷つけてしまった罪悪感と、傷つけることしかできなかった不甲斐なさが僕の心を苛む。
梓の泣き声は、いつまでたっても僕の耳から消えてくれることはなかった。