休みの日〜その夢と、さよならの向こう側には〜
34.マフラー
※※※※
僕がまだ小学生の頃。母が兄の洋服のボタンに、糸を通しているところを間近で見ていた。それは夏休みの、なんでもない一日。
どうやら兄は、木登りをしている時に不注意で、木の枝にボタンを引っ掛けてしまったらしい。危ないことをするなと母は叱って、そのボタンを直す時も不機嫌そうに眉をひそめていた。
『あの子、自分で直しなさいって言ったら、そんな難しいことできないって。悠も、もう授業で習ったんじゃないの?』
何気なく、母は僕にそう訊ねてくる。ボタンを付ける授業なんて、一年も前に終わっていたからすぐに頷いた。
すると母は針と僕とを交互に見て、『お母さん洗濯物干さなきゃいけないから、代わりにやっといてくれない? 夜ご飯は多めによそってあげるから』と、微笑みながら言った。それは魅力的な提案だと僕は思い、母から糸と針をもらって、それから一人で作業を進めた。
こんなに簡単なこともできないなんて、兄はとても変わっている。何もかも負けていた僕だけれど、唯一勝っている部分が見つけられて嬉しかった。妹の菜央も興味深げにこちらへやってきて、『すごい、ママみたい』と褒めてくれた。
洗濯物を干し終わった頃には、すでにボタンは付け終わっていた。そんな僕の頭を、母は優しく撫でてくれたのを今でも覚えている。僕はただ、単純に嬉しかった。
それに味をしめた僕は、それから自分で裁縫について調べ始めた。縫い方にもいろんな種類があることを知り、その知識を得て自分の技術となっていく快感が、忘れられなかった。
小学六年生の夏休みの工作では、かぎ針を使って一人で毛糸のマフラーを編んだ。難しかったけれど、自分の一番好きなことだったため、僕は真剣に取り組んだ。課題を提出した時、先生は驚きで目を丸め『これ、本当に滝本くんが作ったの?』と聞いてきたのを今でも覚えている。男の子からは、『お前女かよ!』とからかわれたけれど、女の子からは『すごい! 私も作ってみたい!』と、ほんの少しだけ注目された。
小学生の時点で、ある程度ミシンは使えていたため、中学生を半ばほど過ぎた頃には簡単なTシャツを自作できるようになっていた。型紙はネットに落ちていた無料のフリー素材を使ったけれど、一から一人で縫製を行った。
そして高校生になった僕は、服飾業界で働くことを夢に見るようになっていた。服に関わることができるならば、デザイナーでもパタンナーでも、それこそ縫製担当でもよかった。自分の好きなことを夢にしないほうがいいと言われているが、服飾以外に自分の将来を思い描くことは無理だった。
けれどいい大学へ通い、いい企業に就職することを両親が望んでいることは、その時の僕には理解できていた。男の僕が、服飾の専門学校や大学へ通いたいなどという戯言を言った日には、頭がおかしくなったのかと思われていただろう。だから僕は趣味と割り切って、進路として選びはしなかった。
水無月奏と出会って、誕生日のプレゼントを考えている時、初めて誰かに自分で作ったものをプレゼントしようと思い立った。正直恥ずかしかったけれど、自分の一番得意なことの方が、心がこもると思ったから。普段より質の高い毛糸を使って、丁寧に彼女のためにマフラーを編んだ。重いと言われるかもしれないと不安だったが、それでも僕はマフラーを編んだ。
結果的に水無月は、僕のプレゼントを泣くほど喜んでくれた。こんなに心のこもったプレゼントは、初めてですと。
そのとき僕は、初めて誰かのために何かを作ることの喜びを知った。
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僕がまだ小学生の頃。母が兄の洋服のボタンに、糸を通しているところを間近で見ていた。それは夏休みの、なんでもない一日。
どうやら兄は、木登りをしている時に不注意で、木の枝にボタンを引っ掛けてしまったらしい。危ないことをするなと母は叱って、そのボタンを直す時も不機嫌そうに眉をひそめていた。
『あの子、自分で直しなさいって言ったら、そんな難しいことできないって。悠も、もう授業で習ったんじゃないの?』
何気なく、母は僕にそう訊ねてくる。ボタンを付ける授業なんて、一年も前に終わっていたからすぐに頷いた。
すると母は針と僕とを交互に見て、『お母さん洗濯物干さなきゃいけないから、代わりにやっといてくれない? 夜ご飯は多めによそってあげるから』と、微笑みながら言った。それは魅力的な提案だと僕は思い、母から糸と針をもらって、それから一人で作業を進めた。
こんなに簡単なこともできないなんて、兄はとても変わっている。何もかも負けていた僕だけれど、唯一勝っている部分が見つけられて嬉しかった。妹の菜央も興味深げにこちらへやってきて、『すごい、ママみたい』と褒めてくれた。
洗濯物を干し終わった頃には、すでにボタンは付け終わっていた。そんな僕の頭を、母は優しく撫でてくれたのを今でも覚えている。僕はただ、単純に嬉しかった。
それに味をしめた僕は、それから自分で裁縫について調べ始めた。縫い方にもいろんな種類があることを知り、その知識を得て自分の技術となっていく快感が、忘れられなかった。
小学六年生の夏休みの工作では、かぎ針を使って一人で毛糸のマフラーを編んだ。難しかったけれど、自分の一番好きなことだったため、僕は真剣に取り組んだ。課題を提出した時、先生は驚きで目を丸め『これ、本当に滝本くんが作ったの?』と聞いてきたのを今でも覚えている。男の子からは、『お前女かよ!』とからかわれたけれど、女の子からは『すごい! 私も作ってみたい!』と、ほんの少しだけ注目された。
小学生の時点で、ある程度ミシンは使えていたため、中学生を半ばほど過ぎた頃には簡単なTシャツを自作できるようになっていた。型紙はネットに落ちていた無料のフリー素材を使ったけれど、一から一人で縫製を行った。
そして高校生になった僕は、服飾業界で働くことを夢に見るようになっていた。服に関わることができるならば、デザイナーでもパタンナーでも、それこそ縫製担当でもよかった。自分の好きなことを夢にしないほうがいいと言われているが、服飾以外に自分の将来を思い描くことは無理だった。
けれどいい大学へ通い、いい企業に就職することを両親が望んでいることは、その時の僕には理解できていた。男の僕が、服飾の専門学校や大学へ通いたいなどという戯言を言った日には、頭がおかしくなったのかと思われていただろう。だから僕は趣味と割り切って、進路として選びはしなかった。
水無月奏と出会って、誕生日のプレゼントを考えている時、初めて誰かに自分で作ったものをプレゼントしようと思い立った。正直恥ずかしかったけれど、自分の一番得意なことの方が、心がこもると思ったから。普段より質の高い毛糸を使って、丁寧に彼女のためにマフラーを編んだ。重いと言われるかもしれないと不安だったが、それでも僕はマフラーを編んだ。
結果的に水無月は、僕のプレゼントを泣くほど喜んでくれた。こんなに心のこもったプレゼントは、初めてですと。
そのとき僕は、初めて誰かのために何かを作ることの喜びを知った。
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