休みの日〜その夢と、さよならの向こう側には〜
6.アルバイト
翌日、書き上げた履歴書を持って、多岐川さんの働いているスーパーマーケットへ赴いた。彼女は店の自動ドアの前で待ってくれていて、僕を見つけると屈託のない笑みを浮かべて近寄ってくる。
「滝本さん、こんにちは!」
「こんにちは」
多岐川さんはこれからバイトなのだろうか。下はジーンズに上は半袖のTシャツという、比較的ラフな格好をしていた。
あまりまじまじと服装を見つめるのもよくないと思い、視線を上げて彼女のことを見る。多岐川さんは、まるで大切なものをどこかへ隠した子どものように、ニコニコと笑みを浮かべていた。
「実は、今日滝本さんの指導係を任されたんです」
「えっ、今日?」
訊き返すと、彼女は首をかしげた後に頷いた。
「もしかして、都合が悪かったですか?」
「いや、そんなことはないんだけど……まだ履歴書も提出してないからさ」
「全然気にしなくていいと思いますよ。うちすごく緩いので!」
「そうなんだ……」
彼女はそう言うが、僕は気を緩めたりしない。今までにもバイトの面接で落とされたことがあるし、そう都合よく行かないこともあることを知っている。
しかしそんな心配は、本当に杞憂に終わった。多岐川さんに事務所へ案内され、そこで少し若めの店長に挨拶をしてバイトをしたい旨を伝え履歴書を渡すと、ただ一言「君、採用ね」と告げられた。店長の言っていることが、しばらくのみこめなかった。
我に返ったのは、多岐川さんが僕に話しかけて来た時だった。
「よかったですね、滝本さん」
「え、いや、すみません。本当に採用なんですか……?」
冗談で言っているのかと思い店長に聞き返すと、彼は僕を見て笑みを浮かべる。
「多岐川くんの紹介だからね。彼女、とても信頼出来るんだよ」
「あの、僕と彼女が知り会ったのは、つい昨日のことなのですが……」
「それじゃあ、尚のこと君は信頼されてるんじゃないかな」
店長に言われ多岐川さんのことを見ると、彼女も僕に対して柔らかい笑みを浮かべる。その表情に偽りの影は見えなかった。
一応店長は履歴書を確認しているが、特に気になったことはないのか、すぐに紙面から目を離した。
「給料とかの具体的な話は後でするから、とりあえず着替えてきなさい。お金がないということは、今すぐにでも働いた方がいいよね?」
「あ、はい。わかりました」
それから僕は事務所の隣にある男子更衣室へ案内され、アルバイト用の制服を多岐川さんから渡された。緑色のジャンパータイプのもので、僕はそれを羽織り貴重品を鍵のかかるロッカーへ放り込む。
多岐川さんを待たせたりしないように、すぐ更衣室から出ると、数分ほどした頃に隣の更衣室から彼女は出てきた。長い髪はポニーテールにまとめられていて、その姿もよく似合っているなと、僕はふと思う。そんなことを考えていると、彼女はにこりと微笑んだ。
「似合ってますか?」
「似合ってるよ」
「今、適当に言いました?」
「いや、本当に似合ってるから。髪まとめてるのも、ちゃんと似合ってるよ」
素直に褒めてあげると、彼女は恥ずかしかったのか少しだけ頬を染めた。僕はそんな多岐川さんに、口元を緩める。
「もしかして、褒められ慣れてない?」
「そう、なんですかね? そもそも男性の方に、あまり免疫がないんです。中学高校と女子校だったもので……」
「あぁ、そうなんだ」
「大学も、男性の方が少ないんです」
それなら初対面の時に、少し馴れ馴れしいことをしたかもしれない。見ず知らずの人がキャンバスを運ぶのを手伝うと言って、昇降口前までついて行くなんて。多岐川さんが優しい人じゃなければ、最悪引かれるか通報されていたかもしれない。
「あの、何かおかしなところがあれば言ってくださいね」
「今のところ、おかしなことろはないかな。うん、普通だと思う」
そう伝えると、彼女は安心したのかホッと胸をなでおろした。
多岐川さんから、店内のどこにどんな商品が置いてあるかを簡単に教えてもらった後、レジへ案内される。五台あるうちの四台で、他のアルバイトの方が商品を通して接客をしていた。僕はその一番後ろのレジで、彼女から指導を受けている。
「ここにバーコードを近付けて商品を通すんです。取り消したい時はここを押して、もう一回バーコードを読み取ってください」
「こうですか?」
言われた通りにすると、直前に通した商品が無事に取り消された。コンビニのレジでも経験したから、今までやっていたことの復習みたいなものだ。
しかし多岐川さんは僕の方を見て、首を斜めに傾げる。頭上にはてなマークが浮かんでいるようだった。
「えっ、何か間違えてましたか?」
「あ、いえ、完璧なんですけど……なんで敬語使ってるんですか?」
「あぁ、多岐川さんはバイトの先輩にあたるので」
アルバイト中に、多岐川さんへ敬語を使わないのはさすがにマズイ。他のアルバイトの方に、敬語も使えない人だと思われるかもしれないから。こういう些細なことをきっちりやっておかないと、良い印象は与えられないだろう。
「別に、敬語なんて使わなくていいですよ?」
彼女は少し恥ずかしそうにして、チラリと僕を見る。
「アルバイト中だけですから、気にしないでください」
出会った時は敬語を使っていたが、今は外しているため違和感があるのだろう。けれどアルバイト中だけという言葉に納得してくれたのか、彼女は素直に頷いてくれた。むしろ、多岐川さんの方こそ敬語を外してもいいのにと思ったけれど、そこはやっぱり男と接するに慣れていないからなのかもしれない。
その後、練習用に持ってきた商品を通してくださいと言われたため、僕は言われた通りに手際よくバーコードを読み取っていく。同じ種類のチョコレートが三つあったため、個数のボタンを押してから乗算のボタンを押して通すと、彼女は「えっ?!」という驚きの声をあげた。僕はその声にびっくりして、思わず肩をびくりと震わす。
「あの、間違えてましたか……?」
「えっ、えっ、今のどうやったんですか?!」
一度商品を取り消してから同じことをやると、彼女は「え、すごい。そんなこと出来るんだ……」と、無意識に敬語を外して呟いた。
「もしかして、機械操作苦手なんですか?」
疑問に思い聞いてみると、彼女は恥ずかしそうに頬を染める。
「恥ずかしながら……レジの操作も覚えるのに時間がかかったので……滝本さんの方がレジ操作詳しかったんですね……」
肩を落とす多岐川さんを見て、僕は苦笑する。先ほどスーパーの前で会話をした時、僕の指導係りになったことを、彼女はすごく喜んでいた。調子に乗って、教えられていないことをやらない方がよかったかもしれない。
「僕、コンビニで働いていた経験しかないので。スーパーの仕事は、絶対に多岐川さんの方がよく知っていると思います。なので、あまり気にしないでください」
そんなフォローを入れると、落ち込んでいた多岐川さんの元気は少しだけ戻ったようだった。実際僕は一通りのレジ操作は分かっても、それ以外のことはまるで分からない。多岐川さんがいなければ、僕なんて使い物にならないだろう。
「そ、そうですよね! 私に任せてください!」
そう自分に言い聞かせるように言った後、彼女はまた一通りの仕事内容を教えてくれた。スーパーでの接客の仕方、何時にゴミを捨てて、いつレジ上げを行うのか。使える商品券の説明などを、細かく丁寧にわかりやすく説明してくれる。
気付けば閉店時刻の九時になっていて、最後のお客さんが買い物袋を持って店を出て行く。それを見送った僕は、急に強い脱力感を覚えた。久しぶりにバイトをして、とても疲れたのだろう。
「ありがとうございます、多岐川さん。多分、だいたい覚えました」
「それならよかったです。それと、もう敬語使わなくていいですよ」
「いえ、まだスーパーを出てませんので」
冗談交じりに言うと、彼女が頬を膨らませて可愛いなと思った。そんな風に話していると、レジ上げの終わった大学生ぐらいの男が、こちらへとやってくる。
「お疲れ。今日から入った新人?」
「はい、滝本悠って言います。これからお世話になります」
「そんなかしこまらなくてもいいよ。俺、岡村。よろしく」
「よろしくお願いします」
岡村さんは、体育会系の人間なのだろう。僕とは違って、ガッチリとした体つきをしていた。
「多岐川ちゃんも、お疲れ」
「あっ、はい。お疲れ様です」
「滝本って、多岐川ちゃんの友達?」
「あ、えっと、はい。お友達です」
なんとなく、僕と話している時より多岐川さんの歯切れが悪かった。右手と左手を握手するように握りしめていて、視線は岡村さんの方へ定まっていない。
それだけで、男の人に緊張しているんだなということが理解できた。また、別の人がこちらへとやってくる。今度は女性の方で、落ち着いた雰囲気の子だった。
「お疲れ様です、梓さん」
「あ、お疲れ渚ちゃん!」
「その方が、一昨日助けてくださったんですか?」
「そう! そうなの!」
「へぇ、一昨日滝本なんかしたの?」
岡村さんが渚と呼ばれた女の子にそう訊ねると、彼女は多岐川さんのように戸惑ったりせず、スラスラと答えた。彼がアルバイトの中で嫌われているというわけではなく、単に多岐川さんが緊張していただけなのだろう。男性に苦手意識を持っているというのは、どうやら本当だったようだ。
「学校に遅刻しそうになったのを、助けてもらったそうです。昨日電話で教えてもらいました」
「へぇ、やるじゃん滝本」
「いえ、あれは偶然というか……」
「本当に、一昨日は助かりました!」
「おいお前ら!早く着替えて売り上げ書け!」
そんな雑談を交わしていると、とうとう店長に遠くから呼ばれてしまう。僕らは苦笑して、残りの閉店作業をおこなった。