海賊船「Triple Alley号」
――その夜、黒い海は凪いでいました。雲1つない星空に満月が浮かび、辺りは煌々と照らし出されています。
マルクル大佐から手紙をもらいました。信用を失わない為に僕を傷つけてほしいという願いを飲んでくれました。部下を3人茂みに待機させているということでした。
不信感を募らせている今、「豹」を裏切っても罪悪感は少ないだろうと考えていました。しかし、実行に移すのが何故か躊躇われました。結局僕はまだ非情になりきれていませんでした。人を殺せないどころか裏切ることさえ出来ない臆病者です。
それでも待機してもらっている以上、遂行しない訳にはいきませんでした。
勇気を奮い立たせ、静かに部屋を出ました。廊下を歩く間物音1つしませんでした。寝静まった船内で、僕だけが意志を持って動いていました。
いないでくれればいいのにと思いましたが、甲板にはいつものように「豹」がいました。もう後には退けません。
「豹」は僕を待ち望んでいたように笑っていました。
「やあ、コルーシ。今日は本当にお疲れ様」
「いえ、僕は何も」
自分の声が随分と遠くから聞こえました。ぎこちない、よそよそしい声です。
「豹」は特に不審に思った様子もなく話し続けました。
「それにしても、あの海賊団も懲りないよね。仇だとか言って次々にやって来てさ。いい加減止めてくれないかな…」
「じゃあ、こちらが衝突を避ければいいんじゃないでしょうか?」
「それは出来ないよ。昔にやろうとしたことあるけど、しつっこく追ってきたからね。堂々と戦え、逃げるなって。あの時は虎が挑発に乗せられちゃったから、押さえるのが大変だったよ」
「そうなんですか」
口内がカラカラに渇いていました。代わりに掌が汗でびしょ濡れです。
「あいつら、俺達が3人きりだった頃からずっと追い回してくるんだ」
相槌を打とうとしましたが、喉が詰まって何も言えません。目眩を感じて、木製の縁を掴んで耐えました。
「ガキが気安く海賊旗を掲げるなって言いたいらしい。確かにこの旗を掲げてる割には海賊してないからな。でも、俺達だってもうガキじゃ………コルーシ?どうした?」
異変に気づき、「豹」が声をかけてきました。どうやら僕は顔面蒼白になっているようで、心配そうに見ています。ようやっと声が出ましたが、変に嗄れていました。
「……ちょっと、気分が……悪くて……」
「うん、顔色悪いよ。こっちにおいで」
肩を抱かれ、案内されるままに歩きました。柔らかい木の床から固い地面に変わりました。船を降りたようです。
地面に座らされ、「豹」は僕をしっかり抱いたまま顔を覗き込みました。深い海色の瞳に自分の姿が映っているのが見えました。
「大丈夫か?船酔いかもしれないな、暫くここでじっとしていなさい」
「……あ……っ」
急に喉のつっかえが取れました。揺れていた視界が安定し、自分達が今どこにいるのかがはっきり分かりました。傍には茂みが……
身を固くした途端、衝撃に襲われました。鈍い音がして、僕を包み込んでいた温もりが遠ざかりました。支えを失い、地面に倒れ込みました。
恐々顔を上げると、懐かしい白とマリンブルーの制服がありました。
「身柄拘束!ベンター中将、この者はどうしますか?」
ベンター中将――何故この人がここにいるのでしょう。マルクル大佐は部下を3人と言ったのに、部下は2人しかいません。その代わりに、大佐の上司である中将がいます。
ベンター中将はいつも首にコルセットをしていました。今日もそうでしたが、それを見た瞬間に僕は全てが分かったような気持ちになりました。彼の目に狂気がチラチラと見えたのです。
「ご苦労。こんな下っ端はほっとけ。それよりも……」
中将は首のコルセットを俄に剥ぎ取りました。
歪に曲がった首が現れました。よく見るとそれは曲がっているのではありません。抉り取られているのです。
「ずっとこの時を待っていた……お目にかかれて光栄だ、金髪ネコさんよ」
「っ!!それは……っ」
「豹」の驚愕した声が聞こえました。弾かれたように立ち上がって彼の姿を探し、2人の海兵に羽交い締めにされているのを漸く見つけました。
中将は瞳孔を開いていました。口角が不気味に持ち上がり、口だけで笑っています。冷めた目にはよりはっきりと狂気の色が浮かんでいました。
「君達3匹には随分と世話になった。この傷痕、覚えているだろう。君の弟がやった傷だ。一命は取りとめたが、もうここの組織は再生しないんだとさ」
聞いたこともないような、ねっとりした声でした。中将は「豹」の顎に指を掛け、ゆっくり持ち上げました。その仕草を見ていると、マルクル大佐の言葉が蘇ってきました。
……(ゲイ)中将の……
「……楽しみだ」
ベンター中将は吐き捨てるようにそう言い、部下に撤収命令を出しました。それから1人先に上機嫌に鼻歌しながら歩いていってしまいました。
部下の1人が僕を殴って蹴り倒しましたが、あまり痛くありませんでした。手加減をしてくれたのでしょう。それでも僕は起き上がれませんでした。自分のしてしまったことが怖くて、今立ったら海兵達を攻撃してしまいそうで、起き上がれませんでした。
「豹」は抵抗しませんでした。僕の方に振り向き、必死に何かを叫んでいます。頭の中に言葉がワンワン鳴り響いて、バラバラに聞き取るのもやっとでした。
「……このことを……逃げろ……コルーシ……大丈夫か……伝えるんだ……皆に……」
声が遠退き、聞こえなくなりました。
どこかでフクロウが鳴いています。羽音がして、僕の傍に何かの気配が降り立つのを感じました。セレーネです。優しく囀ずり、僕の頬に体を擦り寄せました。
僕はまだ起き上がれませんでした。
呆然と横たわっていると、セレーネが急に羽を広げて飛び立ちました。行かないで、独りにしないでと叫びましたが、自分の声が聞こえませんでした。
少しして船の方から足音が聞こえてきました。肩を叩かれ、抱き起こされました。淡い灰色の瞳に見つめられていました。肩越しに髪を下ろした「山猫」も見えます。
「っおい、大丈夫か!?」
「早く船へ!!皆に知らせなくては……っ」
「立てるか、コルーシ?ゆっくりでいいから、な?」
足に力を入れようとしましたが、感覚がなくなっていました。困惑して「虎」を見つめ返すと、彼はすぐに僕を抱き上げてくれました。
背中に背負ってもらいます。その肩にセレーネが乗っていました。2人を呼んできてくれたのでしょう。僕の鼻を優しくつつき、心配そうに鳴きました。
セレーネもそうですが、2船長が駆けつけてくれたことが何故かとても心強く思えました。この2人までも裏切ってしまったと言うのに、なんと皮肉なことでしょう。
「山猫」は一足先に船に戻っていました。向かっているうちに、船内のあちこちに灯りが灯されていきました。喧騒も段々と大きくなってきました。
戻った僕を何が待ち構えているのか、考えたくもありませんでした。
僕が想像したような酷いことにはなりませんでした。それどころか、露ほども疑われませんでした。
タニさんは僕を見つけた途端に泣き出し、励ましているつもりなのか肩を力強く叩きました。丸さんは青ざめた顔で無理に笑い、もう大丈夫だからねと言いました。神崎さんは毛布を巻き付けてくれましたし、シゲとハルタは泣きそうな顔で僕の手を握り締めました。ウカミさんは何とも言えない不思議な表情を浮かべて僕を見つめていました。
班の皆から解放されたところで、ルナが駆け寄ってきました。頬が涙で濡れています。
「ああ、コルーシ!!」
人目も憚らずに抱き締められました。シゲとハルタが気になりましたが、2人とも怒ってはいませんでした。
甲板に勢揃いした船員の前に、2人の船長が現れました。水を打ったように静まり返る集団に向かって、「虎」が声を張り上げました。
「―――全員、この先の進路を変更する。この町は危険だ。まだ海兵がいるかもしれない。明日の朝にはここを離れ、一直線に海軍基地を目指す。海軍基地の本部だ!!」
至る所から唾を飲み込む音が聞こえてきました。海軍本部――最も守りが固い場所です。僕も知らないのに、「豹」がそこに投獄されると何故分かるのでしょうか。
「俺には確信がある。俺が入れられたのも、あそこの牢獄だった……ここからだとかなり離れているからな。皆、気を引き締めてかかってほしい」
『はい!!』
全員の揃った返事が明け方の空にこだましました。
―坤の章 完―