海賊船「Triple Alley号」
今夜もまた舞踏会だった。
同じような人と挨拶をし、笑顔で世間話やら衣装の褒め合いやらをする。貴婦人の取り繕ったような世辞を聞くのにはうんざりだった。
彼の母親は毎日違うドレスを着て行った。彼も豪華に飾り立てられた。母親好みのアスコットタイとベストは息苦しかった。それでも彼は文句1つ言わなかった。
皺のないワイシャツを着て、母親に連れられて馬車に乗った。窓の外をぼんやり眺めていると、まるで自分が牢獄に閉じ込められているような気分になった。
蒼白い顔をした母親が、突然彼の手を取って固く握った。
「いい、ヨっちゃん。頼むから、もうナイフなんて振り回さないでちょうだいね」
母親は常にそれを恐れていた。彼がいつ暴れ出すのではと思うと夜も眠れなかった。
彼は黙ったまま頷いたが、ベストの内ポケットには折り畳み式のナイフが入っていた。
地獄に到着した。閉塞感から解放されたくて、彼は馬車を飛び降りた。逃げようとする手を母親が掴んだ。彼は引きずられるようにして地獄へ入った。
母親はすれ違う人全員に会釈した。すれ違う人は全員彼を見た。気味が悪いと眉を潜め、殆どが挨拶もせずに足早に歩き去った。その度に母親は辛そうな顔をしたが、また誰かが歩いてくると途端に笑顔を作り出した。
地獄の天井はとても高かった。空まで届きそうな程高く伸び上がり、空とこことを遮断した。やはり閉塞感に満ちていた。
母親は彼の手を引き、色んなお偉いさんに挨拶して回った。大事なお得意様、商談を成立させたい金持ち、その他諸々。お偉いさんは涸れることなく湧き出る水のように、次から次へと現れた。
彼はいちいち母親の陰に隠れ、自分が見つからないようにした。腐ったものでも見るような目付きを向けられることに、嫌気が差していた。
似合わないベストのボタンをいじっていると、母親の声が一段と高くなった。
「あら、お子様がいらしたのですね!」
「そうですのよ。人見知りでね」
母親が話していたのは金持ちの商人だった。婦人は母親を意地の悪い目でじっくり眺め、次に彼を見た。途端にぶくぶく太った顔が歪んだ。目は肉で潰れて見えなくなった。婦人は子供を促すとどこかへ消えた。
母親はその場に立ち竦んだ。彼はいよいよおしまいだと思った。もう自分のことを忌み嫌うだろう。振り向かなくなり、捨てられるだろう。そう覚悟した。
その時、後ろから声をかけられた。
「あら貴女、こんな所で何をなさっているのかしら?」
母親が振り返った。彼は振り返らなかった。聞き覚えのある声、すぐ分かった。
母親の顔に再び笑みが現れた。
「いつもお世話になっております!」
「貴女の作るコートは素晴らしいですわ。これからも宜しくしていただけて」
「勿論でございます、奥様!」
「あら、またこの子を連れてらっしゃるの?」
彼には「まだ」と聞こえた。何も聞こえないふりをした。
今話しているのは貴族だった。母親が苦労して作る皮製品を買っているお得意様のマダムだった。
「あら、もしかして……奥様、そちらは?」
「え?ああ、貴女とお会いするのは初めてでしたわね。長男ですの。弟もいるのに、この子ったら甘えん坊で」
興味を持った彼は振り向いた。痩せ細ったマダムにしがみついている子供と目が合った。
子供は金髪で蒼い瞳をしていた。青いシャツと膝までのパンツを穿いて、手には人形を持っていた。これがもしパンツでなくスカートだったなら、子供は女の子にしか見えなかっただろう。
「どうも女の子みたいな遊びばっかりしてしまってね。仕方のない子で」
「お可愛らしいですわ!」
「そうかしら?」
仕方のない子でなどと言いながら、マダムは満更でもない様子だった。
母親は膝を折り、子供に目線を合わせた。子供はキョトンとして母親を見た。
「お名前は?」
「ノブです、おくさま」
母親はニッコリ笑った。自らの子供である彼には、一度もこんな笑顔を見せたことがないというのに。
マダムは子供に意味深な視線を投じた。成金風情を「おくさま」と呼ぶのはお止め、とでも言いたそうだった。しかし本人の前だから口をつぐんだ。
子供は彼に笑いかけた。彼は笑い返すのも面倒で表情を変えなかったが、子供は構わず話しかけてきた。
「おなまえは?」
「……言わない」
「なんで?」
「言いたくないから」
「こら、ヨっちゃん!!」
母親が般若のような顔つきになった。子供は何が面白いのかクスクス笑った。
「ヨっちゃんっていうの?」
「違う」
「じゃあなに?」
「……」
彼は母親を見た。母親はまだ怖い顔をしていた。彼は母親を好いている訳ではなかったが、捨てられたくもないので仕方なしに名前を教えた。
「……ヨシノ」
「ヨシノくん?いいなまえだね!」
子供は拙い口調で大人のような反応をした。それを聞いてマダムは満足そうに頷いた。彼の名前を知りたかったのではなく、単に自分の子供が可愛くて仕方がなかったのだ。
興味を失い、早く離れられないかと考え始めた途端、誰かに突き飛ばされた。驚いて身を引く子供の前で、彼はフカフカの絨毯に手をついた。手をついてしまった。
侮辱されたと受け取った彼は即座に起き上がった。彼のすぐ傍に転がった少年を睨み付けた。向こうから誰かが急いで走ってきた。
「ルーク!!!あんたって子は!!」
少年の母親は黒い髪をひっつめ、ツンとした感じの貴婦人だった。見覚えはあったが誰だか忘れてしまった。
彼の母親は畏まって手を差し出した。
「奥様!!!いつも上質な毛皮をありがとうございます!!」
「あら、貴女でしたの」
彼女は彼を一睨みし、母親にも鋭い視線を投げ掛けた。差し出された手をサッと握ってすぐに放した。
立ち上がった少年は彼をじっと見ていた。嘲るような様子はなく、ただ物珍しそうに見物という感じだった。髪が一房、風もないのにピョコピョコ揺れている。
「ごめんなさいね、うちの子は少々落ち着きがなくって」
「いえ、とんでもない!!」
「……きれいな色だな!」
母親似の少年は急に彼の髪を指差して笑った。太陽のように明るい笑顔だった。
彼は怯んだ。少年の言っていることが信じられなかった。今まで綺麗だなんて言われた例がなかった。
「そめたのか?それとも地毛?」
「こらルーク、人を指差さないと言ったでしょう!」
「だって、こいつのかみの毛きれいなんだもん!」
「いい加減になさい!」
少年は貴婦人の言うことを聞くつもりはないらしい。指差すのは止めたが、まだじろじろ見ている。こんなに見つめられたのは初めてだから、彼はどうすればいいか分からず母親の陰に隠れた。
無視されたのがお気に召さなかったのか、マダムが咳払いをした。とびきり怖い笑顔を作り、貴婦人に話しかけた。
「元気のいい男の子ですこと。うちのノブにも見習ってほしいですわ」
「あら、寧ろ元気がよすぎて困っていますのに……大人しい子ですのね。羨ましいですわ」
「いえいえ、それがね貴女……」
彼女達はお得意の世辞を始めた。
母親は小声で彼に「遊んできなさいな」と言った。仲良くなってくれれば助かる。そう目で言っていた。
好いていないと言いながらも、彼は母親の為に動いた。
子供2人に声をかけるとすぐについてきた。少しは用心した方が良い、変なやつに連れ去られて身代金でも要求されたらどうする。子供離れした考えを持つ彼は、しかし何も言わない。連れ去られても構わないと思っていた。
3人は連れ立ってバルコニーに出た。夜景が美しい眺めだった。
少年はすぐに彼のことを名前で呼んだ。自分を呼ぶ時は名前で呼ぶよう強制したが、彼は少年の名前も子供の名前も覚えていなかった。
「ルークくん、さっきはどうしてはしってたの?」
「走りたかったから」
「へんなの」
子供は笑ったが彼は笑わなかった。別段面白くもなかった。
少年は彼の方を見た。
「君、何でしゃべらないんだ?」
「そうだよ、ヨシノくん。なんでしゃべらないの?」
「……」
喋りたくないから、と言えば嘘になった。本当は2人と話してみたかった。だけど変なことを言って嫌われるのが嫌で、だから喋れないのだった。
訝った少年は安心させるように笑い、彼の手を握った。触れられた部分から、温かい何かが伝わった。彼の心はそれだけで温まった。
「とりあえず、ぼくらのこと呼んでよ!ぼくはルーク、こっちはノブ。な、かん単だろ?」
子供もうんうんと頷いた。
彼は躊躇した。何故だか分からないが、口を開いたら嫌われると思っていた。
そんなに呼んでほしいのなら、いっそ話してみようか。彼は生まれて初めて母親以外の誰かの為に動いた。
「……ルーク、ノブ」
2人は大層喜んだ。