カラダから、はじまる。
小学生の頃から、新しい知識を吸収するのは好きだった。
父親に福岡への転勤の辞令が出ても、女子御三家と呼ばれる中高一貫女子校に進んだ。
母も妹も赴任先へ一緒について行ったが、わたしは三鷹にある母方の祖父母の家から通うことを選び、一人東京に残った。
言葉の違う知らない人たちばかりに囲まれた環境では、「内弁慶」な自分はとてもじゃないけれどやっていけないと思ったからだ。
中学入試で入った女子校では、吸収した知識は単なる道具で、それをいかに自分なりに「使える」かということを考えながら勉強した。
文系・理系というくだらないコース選択をする必要のない学校だったのはありがたかったが(欧米の学校教育には文系も理系もないため、それに則った教育方針だったのだ)やたらと「医者」か「弁護士」かの選択を迫られるのには参った。
進学校の教師というのは、理数系が得意であればT大の理科三類へ、文科系が得意であればT大の文科一類へと進むものだと思っているのではなかろうか?
それらは人の「生命」や「人生」を背負う職業である。ただ勉強ができる or できないというだけでは見極められない「適正」があるのだ。
わたしは所謂「偏差値の高い」人間かもしれないが、それはただ学習した内容をパターン化して脳にインプットし、テストの際に必要に応じてアウトプットした結果に過ぎない。
つまり、先人の「知識」は使えても、自ら生み出す「知恵」がないのだ。
だから、わたしのような情報収集能力しかない人間は、いずれ人工知能に取って代わられるであろう。
医者や弁護士のような職業は「知識」だけではやっていけない。臨機応変に対応できる咄嗟の「知恵」を要するのだ。