その身体に触れたら、負け ~いじわる貴公子は一途な婚約者~ *10/26番外編
「どうかしました?」

 はっとして慌てて微笑みを浮かべる。

「いえ、嫌われなかったようで安心したんです」

 本当に? とその表情は語っていたけれど、気づかない振りをする。視線を自分から逸らせたくて、オリヴィアは眼下に流れる川を指差した。

「あれが、リデリアとの国境を流れるユナイ川ですわ」
「想像していたよりも雄大だ」
「あの川のおかげでこの一帯は豊かな恵みを得られるんです。でもあの川は遠目には穏やかに見えますけど、実際にはかなり流れが速いんですよ」

 ユナイ川が氾濫したときには、屋敷を避難所あるいは救護所として開放する。特に夏の長雨の時期と春先の雪解け水による増水のときは危険が増すのだ。頻繁に水害が発生するため、抜本的な対策が後手に回ってしまう。オリヴィアは毎年のように、避難した領民を受け入れていた。

「では不用意に泳がないようにします」

 フレッドが笑うのにつられて、彼女もくすりと笑った。

「ええ。気をつけてくださいね。溺れる可能性もですけど、不法侵入者と間違われる可能性もありますから」
「不法侵入?」
「ええ、正しくは不法入国になるのかしら。人目を忍んで川を泳いで渡るリデリアの者がいるのです。ですが、ユナイ川は流れも速いですし、渡れたとしてもそこには国王軍も父の私兵もいますから」

 フレッドが彼女の隣に並ぶと、目もとをゆるめてユナイ川を見下ろした。どちらからともなく、川の流れに沿うように歩き始める。

「お詳しいですね」
「ここはフリークス領ですもの」

 ゆったりとした歩調でフレッドと並ぶ。少し得意げになっていたのかもしれない。フレッドが穏やかに笑った。

「それでも完全に防ぐことは難しいのですけど。ここ数年は国王軍の駐屯地も縮小されてしまって。不法侵入は後を絶たないのに、今はほぼフリークスの私兵がここを守っている状態ですわ」

 オリヴィアは川幅がゆるやかに広くなるあたりを指さす。

「嫌なことがあったり落ち込んだりしたとき、いつもあの辺りで川の流れを眺めるんです。嫌なことを川が一緒に流してくれる気がして」

 今も一人でいるときと同じように心が落ち着いている。不思議に思ってふと隣を見上げる。フレッドも気持ち良さそうに川を見下ろしていた。

「僕も、嫌なことがあるときには一人でリリスを走らせますよ。王都からではこのような景色はのぞめないのですが。無心になって走らせると、絡みついたしがらみや不条理もいつのまにか忘れてしまう」

 どきりとした。
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