その身体に触れたら、負け ~いじわる貴公子は一途な婚約者~ *10/26番外編
 確かな温もりが彼女を包み込んでいる。パチパチと薪のはぜる音が、遠い雨の音を遮るように聞こえる。けれどそれよりもすぐ近くで、耳が規則正しい鼓動の音を拾う。

 子守歌のようだ。
 あたたかくて、心地よい。ここにいれば大丈夫という気がする。オリヴィアはゆらゆらと意識がたゆたうのに任せた。



 海の底からすうと浮き上がるように意識が戻ってきて、目を開けると見慣れた寝室にいた。レースのカーテンが窓辺でふわりと揺れるのが視界の端に映る。カーテン越しに茜色の残照が部屋に射しこんでいた。あんなに雨が降ったのに、今はその片鱗も見えない。

 いつのまに屋敷に戻ったのだろう。記憶を探すけれど、狩猟小屋に着いたことまでは覚えているものの、それ以降はほとんど思い出せない。
 夢の中でも、ずっと温かくて確かな感触に包まれていたような気がする。雨の匂いに混じってかすかに落ち着く香りがして──。

 オリヴィアは跳ね起きた。

 フレッドに抱き寄せられた。違う、そんな甘いものではない。
 仕方のないことだった。彼の早めの判断がなければ、彼女はいずれ落馬したか、そうでなくてもあの雨で二人とも体力を奪われて身動きを取れなくなっただろう。

 今こうして自室にいるということは、彼が屋敷まで連れ帰ってくれたのだろう。申し訳なさと、胸をきゅっと締めつける何かが、ないまぜになる。

「お嬢様、お加減はいかがですか? 顔が赤いですが、お熱がまだ下がらないのでは?」
「やだ、大丈夫よエマ。心配をかけてごめんなさい」

 オリヴィアはとっさに上掛けを引き上げ、目の下まで覆った。
 エマは彼女より五歳上で、オリヴィアがまだ十にもならないときから仕えてくれているため、彼女のささいな変化に目ざとい。でも今はあまり見られたくない。
幸い、それ以上追及されずに済んだ。エマが微笑んで水差しからグラスに水を注ぐ。

「肺炎にならなくて本当に良かったです。フレッド様のご判断が適切だったのでしょう。お嬢様、お水をどうぞ。それから果物をお持ちしました。丸一日以上眠っていらっしゃったんですよ」

 ではもう、屋敷に戻った翌日の夕方だったのか。思いがけず寝こんでしまった。
 差し出された水を飲み干して「フレッド様は?」と尋ねると、エマがためらいがちに口を開いた。

「お嬢様とともに屋敷に戻られた後、すぐにお帰りになられました。客人がいては私たちがお嬢様の看病に専念出来ないだろうとおっしゃって」
「そんな」

 それでは手間をかけてしまっただけで、充分な持てなしもできずに終わってしまったのだ。オリヴィアは上掛けの下で立膝になり、そこに頭をうずめた。

 エマが彼女の手からグラスを抜く。「でもほら、お嬢様。見てください」と、飾り棚を指した。そこには花瓶に生けられた、両手に抱えきれないほどたくさんの真っ白な花があった。

「フレッド様からですよ」

 オリヴィアは短く感嘆の声を上げたきり、その花に見入った。
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