課長、サインを下さい!~溺愛申請書の受理をお願いします。
 「課長、お疲れ様です。」

 「ん、ああ。お疲れ。」

 うっすらと煙るその部屋の奥のソファーの上に足を投げ出し、まるで我が家のごとく寛いでいるのが、私の上司、東野雄一郎。
 彼は口にタバコを咥えながら、片手に雑誌、反対側にコーヒーを持っている。

 「課長、明日午後一の会議資料です。目を通しておいてください。」

 「ああ、分かった。」

 「あと、年休申請ですが営業部の方で本日〆切の申請が定時後に出されましたが、通しますか?」

 「ああ、いいぞ。」

 「それと課内の忘年会の場所はいつものところで宜しいでしょうか?」

 「ああ、いいぞ。」

 これまでの会話で課長は私の方を一度も見ることなく、目線はずっと手元の週刊誌にある。
 口元のタバコの先がジリっと小さな火を燃やして白い煙が立ち上った。
 彼は右の人差し指と中指でタバコを挟みながら、器用に持ったコーヒーの缶に口をつける。

 「あと、この申請書にサインと印鑑をお願いします。」
 
 私は鞄と反対の手に持っていた白い用紙を、週刊誌の横から差し出した。

 「ああ、いいぞ、、、」

 と言いながらその白い紙に視線を遣った課長は、次の瞬間

 「ぶはっ!!」

 口に入れたコーヒーを吐きだし、ゴホゴホと咽た。

 「な、な、なんだ、これは!?」

 「見ての通り、結婚の申請書です。いわゆる『婚姻届』っていうものですね。」

 コーヒーのしぶきで茶色い染みのついたその紙を、課長の手からスルッと抜き取って、四つに畳んむ。
 そして鞄の中から、新たに綺麗なものを差し出した。

 「予備を書いておいて良かったです。」

 ニコリとすることもなく真面目な顔を崩さない私を、課長は目を丸くしながら見上げたまま固まっている。

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