国王陛下の庇護欲を煽ったら、愛され王妃になりました
「ノエリア」
シエルに名を呼ばれて、顔をあげる。真っすぐ見つめられて、視線が合う。
「俺と視線を合わせるのは、怖いだろう」
質問の意図が分からず、首を振る。
「いいえ。そんなことありません」
視線を外せなかった。片方の目しか見えていない緑色の瞳は、真っすぐにノエリアを見ている。
「その……美しいです」
「男に言うことじゃないな」
「す、すみません」
「謝ることじゃない。それに」
シエルはノエリアを見つめたまま、目を細める。また光の加減が変わって、綺麗だなど思う。
「この見えない目を美しいなどと言うのは、きみだけだ」
「陛下の瞳は、だって、本当に」
「陛下、ではなく、名前を」
そう言うと、シエルの手が伸びてきて、ノエリアの頬に触れた。知らない熱だ。
「そ……そんな」
「いいから。ふたりのときは、名前を。きみだって俺に言ったじゃないか」
指がノエリアの頬を撫でる。ビクリと肩が震え、目を瞑った。そして、ため息のような声を出した。
「シエル様……」
名を呼ぶと、シエルの手が離れていく。
「王都に帰ったら、調べてみる」
(いまの、なに……?)
シエルは再びケーキの続きを食べた。ノエリアも同じくケーキを頬張った。さっきより甘く感じて仕方がない。カチャカチャとフォークと皿が当たる音が静かな部屋に響く。会話が途切れてしまって、なんだか熱っぽく苦しい空気で肺が膨れるようだった。
(こんな気持ちになっているの、わたしだけかしら)
「ご馳走様。美味しかった」
シエルは何事もなかったかのようにお茶を飲みほした。
「陛下、休まれますか?」
「そうだな。少し横になろう」
「しょ、承知しました。では、夕食時にまたお声がけします」
食器を下げ、トレーに乗せる。そして部屋を出ていこうとすると、背中にシエルの声がかかった。
「ノエリア。楽しいティータイムだった。ありがとう」
「……はい。わたしも、楽しかったです」
(楽しいし、もっとずっと一緒にいたいと思う。こんな気持ちになるなんて。相手は国王なのに)
じんわりと目頭が熱くなったので、急いで部屋を出た。廊下を急ぎ足でキッチンへ向かう。トレーを乱暴に置くと、ノエリアは自室に走った。ドアを閉め、ベッドに倒れこむ。
わけもなく出る涙の理由が、自分の気持ちが分からなかった。
過去の事件も、ヒルヴェラ再興の夢も、ただ頼りなくなって、薄くなっていく気がする。それなのに、心に灯ったシエルへの気持ちだけが膨れていく。
「どうしたの。冷静になって……わたしは」
シエルを。
『ふたりでいるときは、名前を呼んで』
(どうしてあんなことを言うの。退屈凌ぎなのは分かっている)
ポツリと落ちた涙はシーツが吸い込んだ。熱い溜息は空気に溶ける。この思いはどこへ行くのだろう。ノエリアは胸の痛みが静かになるまで、目を閉じていた。
◇
それから数日が経過した。シエルの傷の状態も良くなってきて、まだ動かすのに不自由を感じるものの、良好に回復してきている。
その間、王宮とリウは郵便屋を通じて連絡を取っていたらしく、王都へ戻る手はずを整えていた。そして、迎えが来るのが今日の午後。
皆で朝食を食べているが、少し物悲しい雰囲気に包まれた食卓だった。
「もうちょっとここでのんびりしたいところですね。陛下」
リウが隣のシエルに話しかける。シエルはダイニングで食事をするようになっていた。それも今日で終わりなのだけれど。
「そうだな……許されるならな」
「俺は、ティータイムに食べるケーキが美味しいので帰りたくないです」
「まぁ。ありがとうございます」
ノエリアはリウに微笑み返しながら、シエルのことを見た。
シエルがノエリアに触れた日。あれからふたりで過ごす時間はほとんど無かった。ノエリアは寂しいという気持ちしかなかった。回復して王都へ戻っていく。そのために力を尽くそう。そう誓ったのに、いまは帰って欲しくないと思っていた。
(思ってはいけないことなのに)
「回復されて、本当に良かったです。ヒルヴェラとしてもお役に立ててよかったです」
ノエリアがヴィリヨに微笑む。ヴィリヨは頷いた。
朝食後、ノエリアとマリエはいつものように屋敷の仕事をした。今日もよく晴れて、帰りの心配もなさそうだった。
(あまり余計なことを考えず、笑顔で見送ろう)
ノエリアは畑で、空を見上げて深呼吸をした。
ちょっと熱に浮かされているだけだ。変わりない日常にシエルが現れて、心が揺さぶられただけだ。彼が帰れば、きっと忘れる。元の日常に戻るだけだ。
ブヒヒンという馬のペルラの嘶きに声をかけ、ノエリアは仕事に没頭した。