臆病な背中で恋をした
 たった2階分とは言え小さい密室内の沈黙は案外、気詰まり。前を見上げて。垣間見える横顔を窺う。

 155㎝のわたしより20㎝は高そうな身長。割りとシャープな目元に通った鼻筋。薄めの唇は見かける時はいつも引き結ばれてて、ちょっと愛想が足りない無表情だけど。端正な顔立ちで女子社員の間でもファンは多いらしい。髪は少し後ろに流してきちんとスタイリングされてるし、バランスの取れた体付きでスーツも良く似合ってるし。

 時間が押しているのか、左腕を上げて腕時計を確かめる仕草。その時。不意に目に入ってしまった。上着の袖口のボタンがひとつ取れかかってるのが。

「・・・あっ!」

 思わず声が出た。
 驚いたように振り返った視線が、訝し気にこっちを射抜く。同時にエレベーターが6階に到着して扉が開いた。わたしは考えるより先に、日下室長に向かって口走っていた。

「降りてください」

「・・・何をいきなり」

「上着の袖、ボタン取れそうなんですぐ付けます・・・! 休憩室にいてくださいっ」

 言うだけ言って足早にエレベーターから飛び出しロッカールームに向かうと、自分のロッカーから携帯用の裁縫セットを取って返す。
 休憩室の入り口から一番近いテーブル席の前に、上着を手にした彼が立っていた。

「貸してください」

 受け取るとイスに腰掛け、テーブルの上に裁縫セットを広げた。

「ちょっと座って待っててもらえますか」

「・・・ああ」

 相手の反応にはお構いなしにハサミでほつれた糸を切り、針に黒糸を通して生地とボタンを往復してく。最後にしっかり糸を巻いて縫い留めた。

「はい出来た。お待たせ、亮(りょう)ちゃん」

 テーブルの端にお行儀悪くお尻を乗っけて、腕組みしてた彼を振り返る。 

「・・・相変わらずそういうのは得意だな」

 亮ちゃんが近寄って来て、わたしから上着を受け取り袖を通しながら。口の端をほんの少し、柔らかに緩めた。

「助かった。明里(あかり)」

「うん。急ぐんでしょ、行って?」

「ああ。・・・悪かったな」

「気にしないで」

 わたしが小さく笑って返すと、一瞬目を細めて片手を上げて見せ、休憩室を出て行く。
 毅然とした後ろ姿がドアの向こうに消えても、しばらく目を離せずに。我に返って当初の目的を思い出す。

「わっ、お客さん来ちゃう~っ」

 慌てて給湯室に駆け込んだのだった。
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