臆病な背中で恋をした
2-1
 今日は午前中から立て続けに来客があって、不動産事業部は(せわ)しなかった。午後5時のアポイントが最後で、終業の6時ギリギリまで。片付けないわけにもいかないから、新人のわたしが買って出るのが当然の流れ。

「手塚さん、ごめんねぇ」

 初野さんが申し訳なさそうに手を合わせるのを、「大丈夫です」と笑顔で返して。茶器やポットを6階まで2往復して給湯室に戻し、洗い物を始める。

 着替え終わり、エレベーターを待つ女子社員達の無邪気なさえずりも、いつの間にか無くなって、しんと静まり返ったフロア。カチャカチャと水切りに置く時の陶器が触れ合う音と、流れる水音だけが響いてる。
 一人きりっていう心細さを打ち消そうかと、遠慮なく自分でBGMを口ずさんでると。

「・・・・・・明里」

「ふわぁっ」

 いきなり後ろから声がして、素っ頓狂な悲鳴が口から飛び出した。

「そんな驚くほどのことじゃないだろう」

 びっくりして振り返る。
 そこに立ってたのは紛れもなく亮ちゃんで。少し呆れたような表情が浮かんでいた。

「・・・どうしたんだ? 今日は残業か?」

 あんまり突然で、ちょっと惚けてたわたしは慌てて水栓を止めると、制服のベストのポケットからハンカチを取り出し手を拭く。
 あたふたと向き直って、久しぶりに会えた亮ちゃんの顔を見上げた。

「お客様が帰ったのが遅かったから、片付けで残ったの」

「そうか」

「うん」

「・・・仕事は慣れたか?」

「ちょっとずつね。前の会社と似たような感じだから、どうにかやれてるみたい」

「・・・・・・そうか」

「うん・・・」

 そのあとは続かずに、しばらくお互いを見つめ合い。
 わたしが口を開きかけた寸前に、亮ちゃんがちょっとあらたまった口調で先に言葉を発した。

「明里、これから何か予定はあるのか」

「え? ううん、特にはないけど・・・?」

「・・・この間の礼をしてなかったろ。食事に付き合わないか」

 和らいで見えた眼差し。
 あの頃よりずっと大人びた亮ちゃんの、でも全部が変わっちゃったわけじゃない。そう思えるには十分の。

 思いがけない誘いに天にも昇る心地がして。子犬が尻尾をブンブン振ってるみたいな満面の笑顔で、一も二も無く大きく返事をしたのだった。
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