白いオルフェ
在籍中にそんな事が幾度かあったから、会社が変わっても彼女の事を思い出すことがあった。中国支店出張の時に支店長とある契約の話をしていたが、保証会社の時に使っていた覚書が必要になった事があった。アシスタントにファックスして貰えば良いのだが、八重子に電話しようとして受話器を取ったが、その手を下し考えた、八重子は社内の覚書を他社にファックスすることを気安く引き受けてくれるとは思えない。何となく京子なら違う会社でも事情を話せばファックスしてくれそうな気がした。五年いたのだから保証会社の電話番号は覚えていた。受付の女性に電話が繋がると京子に回して貰うよう頼んだ、やはり事情を話したら快く引き受けてくれた。

 美智雄はその日も渋谷に寄る用事が有って、ついでに保証会社で世間話などをした。帰り際、階段まで行きそうになってから、そう言えば用を足して無かった、と慌ててトイレに駆け込んだ。手を洗ってハンカチで手を拭きながらトイレを出る時、何やら人の気配を感じて階段に目をやると京子がいた。「忙しいだろうに、大丈夫かいアシストは?」と美智雄は笑顔で京子に話しかけながら階段を下りた。階段の一番下まで下りてから思い出したように京子の方を振り返って、「たまには飲みにでも行こうか」
とは言ったものの、そんな言葉が出るとは美智雄自身も思わなかった。
「いいんですか?」と京子が首を傾(かし)げながら何時もの奥ゆかしい表情で言った。
「じゃあ、五時ちょっと前に電話するよ、そのつもりでいて」
 約束通り電話をした。その週の金曜日が良いとの事だったので待ち合わせ場所を決めた。会ってから何処に行くかは決めれば良いと思った。
「井の頭線下北沢の西口寄りのホームで、6時に・・」電話の向こうで声を潜めるように京子が言った。
 
 美智雄は6時20分くらい前に下北沢に着いた。ホームに着いては出て行く電車の風にコートの裾が揺れていた。暫くして時計に目を遣ると6時だ。電話の京子の声を思い出しながら、渋谷方面から次々にホームに入って来る電車のドアを確認しては時計を見る。6時を10分位過ぎた頃、閉まる電車のドアに気を取られていた美智雄の背後から京子の声がした。
「御免なさい、待たせてしまって。帰りがけに富山さんから急なアシストを頼まれて遅くなってしまって」
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