白いオルフェ
頼まれたアシストを済ませると、渋谷の駅まで走ったとの事だった。おまけに電車が帰りのラッシュで混んでいたせいか額にうっすらと汗を滲ませていた。
「大変だったね、お疲れさん」美智雄はそう言いながら額の汗にハンカチをあてている京子を労った。
「じゃあいいかな」美智雄は京子がハンカチをバックにしまったのを見届けてから、西出口に向かって歩き出した。京子も外していたコートのボタンをかけ直すと一緒に歩き出した。下北沢は南口からは繁華街が広がっていて店も人も多いが、西口は打って変わって人通りは少ないし店も少なく静かなものだ。
「何処でもいいかな?何処か行きたい所有る?」
「私は知っている処は有りませんから、何処か有ります?」美智雄に並んで歩きながら京子が聞いた。
「小田急の電車の中から『一人っ子』という看板が見えるんだけれど、そこに行ってみようかと思って」
この辺りは店が少ないから、そこしか心当たりは無かった。
「飲み屋さん、スナックかな」西口から寂れた商店街の間を抜ける下り坂を歩きながら京子が呟いた。
「確か看板に『ジャズ』とか書いてあったからスナックだと思うんだ」
下り坂を五分も歩いた処に小田急線の踏切があり、その脇に店の赤い看板が見えた。
店の外には、洋酒の瓶等が乱雑に入れられているケースが幾つも重ねてあり、ケースの間を抜けると古い木製の扉があった。
「わ、大人の雰囲気ね」と扉を開けて先に中に入った京子の一声が聞こえた。
店内は薄暗く、クリスマスのように小さな電球がいたるところで瞬いている。
「雰囲気いいみたいだな」美智雄が呟いた。
美智雄が毎日帰りの電車でここを通る時に、車窓から見えるガラス越しの灯りに何か拘るものを感じたことがあったが、まさか来ることになるとは思わなかった。
二人は、店の真ん中のテーブル席に座る。
店員が挨拶をしてやって来ると軽く上体を曲げメニューを広げた。
「僕は先ずビールを、京子さん何にする?」
「私は・・」メニューを指さして。
「この白ワインをグラスで」
「摘みは何にしようか?」
「そうね、カマンベールにシーザーサラダなんかどう?」
美智雄もメニューに目を通し、「いいね、それにチキンのソテーを」と店員にオーダーした。
京子が店内をさり気なく見回しながら、「一人っ子という名前、お店にぴったりのような気がする」
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