出稼ぎ公女の就活事情。
 リディ。

 彼がそう呼んだ瞬間、わたしの心臓がドクンと激しく跳ねた。

 リディ、それは家族や親しい人だけが呼ぶわたしの愛称。
 それも子供の頃のことで、今もそう呼ぶのは母様と二番目の兄くらい。

 いえ、リディアをリディなんて、ありがちな愛称だもの。わたしの考え過ぎ。
 それにわたしが聞き違えたのかも知れない。
 リディアとリディ。
 アが後ろについているかどうかだけなんだもの。

 そう思うのに、鼓動は跳ねて落ち着かない。
 恥ずかしい。
 きっと顔は赤く染まっているだろう。
 いたたまれなくてうつむきたいと願うのに、頬に添えられた手がそれを許してくれない。
 どころか上向かされて、わたしの頬に手で触れる彼と目があった。

「リディ」

 また、彼が名を呼ぶ。
 今度は聞き違いじゃない。

 たしかに、リディと言ったわ。
 まさか、とまたわたしの頭の中に期待と、わずかな不安が浮き上がる。

「やっぱりそうだ。変わっていませんね」

 藍色がかった銀色の瞳がわたしの瞳と絡み合って、優しく細められる。

--まさか。

「リル、なの?」

 上手く声が出ない。  
 おかげで掠れた声になってしまったけれど、彼--リルはゆっくりと頷いてくれた。


♢♢♢♢♢


 その後何時間も、わたしはリルとたくさんの話をした。
 二人きりで。

 グルーミングの間は、同じ部屋にシルルもいたし、部屋の外では女将さんも待っていてくれた。
 けれども今はその二人もいなくて部屋には二人きり。

 大人になったリルはとても男らしくて凛々しくて、すごく素敵で、一緒にいるとドキドキしてしまう。

 そのせいかすぐに早口になってしまったり噛んでしまったり。
 でも赤くなった顔をそのせいだと誤魔化せるからちょうど良かったかも知れない。


わたしの初恋は、『リル』だ。

獣人の人は子供の間は獣の姿しか持たない。
だけど例外もあって。
 古い血筋の血族は子供であっても特定の状況下では人の姿になれる。

『リル』の場合は新月。 
 月のない夜。
 雨の日。

 五月雨の降る夜に、一度だけ見せてもらった。
 
 本当はちゃんと大人になるまで人にその姿を見せてはいけないという決まりがあると聞いた。
 だから、このことは二人だけの秘密だと。

 10才前後の男の子の姿になった『リル』はわたしが知る誰よりも、キレイで、銀色の髪に雨粒が落ちる様は神秘的で。
 わたしは一目で好きになった。 

 それまでも、『リル』のことは好きだったけれど。
 その好きとは違う好きなのだと、すぐにわかった。  
  
 別れた後、『リル』は何度も手紙をくれたけれど、わたしは一度も返していない。

 怖かったから。
 
 幼くても、わたしは公主で。
 公主であるわたしには、いつか父様の決めた人との婚姻が待っているのだと、知っていたから。
 好きになっても、きっとつらくなるから。

 もしもこれ以上『リル』を好きになってしまったら、わたしはわたしの役目を果たすのを拒みたくなってしまうかも知れない。
 でもわかっていたから。
 
 それは『いけない』ことだと。

 だから、蓋をした。 
 

 わたしは失敗したのかも知れない。
 あんまりぎゅーっと蓋をしてしまったから、逆に『リル』への気持ちはわずかな隙間だけでいっぱいに溢れて出てしまう。   
 しまい込んでいたからこそ、その気持ちはあの頃のそのままで。

 少し蓋をずらしておくぐらいの方が自然と風化して消えていたのかも知れない。

 
 でもだからこそ。
 幼い頃の気持ちに引きずられているだけだとも言える。
 これは、引きずられているだけ。
 
 わたしはそう自分に言い聞かせてまた気持ちに蓋をする。

「あの、そろそろ部屋に行くね」

 そう告げて笑った。
 上手く笑えているといいけれど。
 










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