いつか、きみの空を。
「ならないよ」
立ち止まって前にも後ろにも進めなくなったわたしへと一歩近付いて、橋田くんは同じ言葉を繰り返した。
「なれないよ」
三度目は、一文字だけ違う。
わたしがいつも線引きをしているせいで、距離の縮まりは微々たるものだけれど、橋田くんはたまにしっかりと言葉で伝えてくれる。
文字で言葉で、上塗りするように紡がれる『 好き 』が苦しい。
飲み込みたくないけれど、手のひらに積もっていくそれを捨てられなくて、泣いて砕きながら嚥下してきた。
「花奏ちゃん。俺のこと、名前で呼べる?」
名前で呼んで、とはっきり言ってくれない。
わたしに選択の余地を残すのは、優しさだけではなく、橋田くんもこの距離感に思うところがあるのだろう。
わたしから歩み寄らなければ、いくら近付いたつもりでいても、波のように簡単に離れてしまう。
「ゆ、」
橋田、侑也くん。
喉に何かが突っかえて、声にならない。
そんなわたしを見て、橋田くんは目尻を悲しげに下げながら、言った。
「少し、距離を置こうか」
「なんで……待って、言えるから」
「頑張ることじゃないんだよ、そういうのは」
わたしに向かって歩いてきた橋田くんが、止まらずにすれ違う。
名前を呼べたら、止まってくれる?
その手を掴めたら、待ってくれる?
無理をしなければ、橋田くんの名前さえ呼べない。
そのことに橋田くんは気付いていたのだろう。
だから、自分は名前で呼ぶようになっても、わたしに同じことを要さなかった。
足の周りを固められたみたいに、一歩も動くことが出来ない。
紡げなかった言葉の続きを精一杯吐こうとするように、口を開いたままでいるせいで舌と唇に冷たい空気が乗る。
「ゆ、う……」
掠れた声を最後は閉じ込めた。
開いたところで、呼べたのかはわからない。
ただひとつわかるのは、もう橋田くんには届いていないということ。
明るかった空が急速に曇り始め、一粒二粒と落ち始めた雫が街路樹の枝を撓らせる。
ハンドバッグの生地素材が水を弾くもので良かった。
葵衣のこととなるととめどなく流れて止まらない涙が、今は一滴も零れ落ちてくれないから、雨を降らす空を見上げ、目を閉じる。
瞼に数滴の雫が溜まる頃、顔を俯けて、伏せた目を開く。
頬を伝う雫は冷たく、目を閉じたときではなく開けたときに落ちるほど、下手な擬態だ。
わたしはずるい人間だけれど、どこかで非情になりきれない部分があると思っていた。
簡単に嘘を吐いて、自分本位な選択をしてみせても、人を裏切りきれない部分が必ず残っていると。
でも、違った。
どこまでもずるかった。
胸は痛むけれど、これでいいんだって思う自分がいる。
このまま、終わらせてほしい。
帰って携帯を開いたら、別れようってメッセージが届いていることを願って、カバンに入れた折り畳み傘は使わずに帰路につく。
コンクリートの階段にひとり分の足音が響いて、虚しくて、苦しくて、けれど悲しくはなかった。