いつか、きみの空を。


帰り際、何か言いたげな橋田くんから顔を背けて日菜の元へと向かう。

わたしの肩越しに橋田くんの様子を伺い見て、いいの?と言うけれど、今話すことなんてない。

距離の置き方として、正しくないことはわかってる。

けれど、強引にでも手を引き止められない限り、橋田くんとクラスメイトとして以上の会話をするつもりはない。


わたしよりも日菜の方が橋田くんを気にしていて、目線を遮るように立ち位置を移動すると、追及はせずにいてくれるから、一緒に教室を出る。

階段を下りる最中、一応周りを確認して日菜が耳打ちをする。

橋田くんがすぐ後ろを追ってきているわけもないし、普通に聞けばいいのに。


「喧嘩したの?」


「喧嘩、ではないかな」


距離を置こう、という言葉は、きっと寸分違わずにそのままの意味で、勘繰る必要なんてない。

わたしが渡した最低な条件を、橋田くんがどう捉えているのかは、いくら考えたってわからないのだから。


「わからない?」


「……わかりたいけど、見えない」


一段下に立つ日菜がわたしを仰ぎ見て、腕をポンと叩く。


「気持ちは見えないからね。……あたしも、ちゃんと話すよ。ずっと、ずるくてごめんね」


日菜は、覚悟を決めたような、迷いのない目をしていた。

真っ直ぐに見つめ返したつもりのわたしの瞳は、揺るがない光を持って、日菜に見えていただろうか。


学校の敷地を出て数分、いつもの帰り道を進んだ先の分かれ道でお互いに顔を見合わせる。


「わたしの家でいい?」


日菜も同じ提案をすると思ったから、先手を打った。

開きかけた口を閉じる日菜に少し申し訳ない気持ちになるけれど、日菜の家へ行くよりも自分の家の方が落ち着いて話せる。

家の行き来は昔から何度もしてきたことで、今更緊張も遠慮もいらない。


マンションのエントランスに招き入れ、エレベーターに乗り込む。

六階のボタンを押してエレベーターが上昇する間、息苦しいような空気があった。

突き当たりに向かうまでの通路の距離がやたらと長く感じる。

緊張なんかしていない、するわけないと思っていたのに、実は肩に力が入っていたことに気付いたのは、家の鍵を開けようとする手に汗が滲んでいたからだ。


開けたドアの向こうに日菜が入るとき、お邪魔しますと小さく呟いた声も、微かに震えていた。

きっと、わたしも日菜も同じくらいの居心地の悪さを感じている。


『 かえって 』


あの日、日菜が全身で示した拒絶が脳裏に蘇る。

嫌悪、戸惑い、疑心、色んなものが混ざっていた。


わたしは、あと二年と決めるまでに何年もかかったのに、日菜は僅かな時間でわたしから葵衣を奪うための行動をしたことを思い出す。

消し去りたくて、けれど、忘れられない。

だって、その関係は今も続いているのかもしれないから。


「あ……日菜、リビングとわたしの部屋、どっち……」


靴を整えたあとに廊下を振り向くと、先に上がってもらった日菜がわたしの部屋の前に立っていた。

お茶を用意したり、お菓子を出したりだとか、そんな必要はないと言いたいのだろう。


楽しく話すためにここにいるのではない。

況して、遊ぶためにここに来たわけでもない。


そんな気はしていたけれど、葵衣は家にいない様で、日菜と二人きりの空間がもう既に広がっている。

ぺたりと床を踏み締める感覚が足裏に伝わる。


自室のドアを開けて入るように促すと、日菜の喉の辺りが引き攣るように動く。

強ばった面持ちを見ていると、なぜか少しホッとする。


「ねえ、何でこんなことになったの?」


部屋を見渡した日菜の第一声がそれで、直球すぎやしないかと身構えたけれど、すぐに納得した。

気心知れた日菜が相手だから忘れていたけれど、クローゼットは開けっ放しで床に広げたままの衣服もいくつかある。

ハンドバッグも机のそばに放り投げていて、それなりに散らかった部屋が出来上がっていた。


「一昨日、橋田くんと出かけたときの名残りだよ」


「それってデート?」


「にはならなかったんだけどね」


回収しきれる分の衣服をかき集め、ベッドの上に置いておく。


わけがわからない、という顔をする日菜にクッションを手渡すと、ラグに座り込む。

わたしもそばに座って、何から話すべきかと首を傾げた。


日菜から何か聞いてくれたらいいのだけれど、一向にその気配がないから、順を追って一昨日の出来事を話す。

話せないこともあるけれど、言葉を選んで出来る限りの説明をしている間、日菜は膝の上に乗せた手元に視線を落としていた。


「名前、呼べなかった」


それだけのことでって思われるかもしれない。

けれど、橋田くんにああまで言わせてしまった決定打は、わたしが名前を呼べなかったことだ。


「そういうのは頑張ることじゃないからって橋田くんは言ってたけど、呼べないなんて思わなかった」


「どうして呼べなかったのか、花奏はわかってる?」


ずっと、相槌も入れずに話を聞いていた日菜が顔を上げた。


ただ並べるだけの理由ならいくつもある。

日菜が言いたいのは、そういうものじゃない。


「進展がこわかった……? ちがう、名前を呼ぶことだけが、いやで……」


「ゆっくりでいいよ」


橋田くんの名前が羅列して頭に浮かぶたびに、被さるように別の文字が濃く上塗りされる。

何度重ねても、追いついてくる二文字が、橋田くんの名前を追い越していく。


「葵衣」


零して、落として、気付いてしまう。


好きと言えない代わりに、ずっと葵衣の名前を呼んでいた。

他のどんな言葉よりも一番に葵衣に伝える名前は特別だったから、知らず知らずに乗せてしまっていたのだと、そんなめちゃくちゃな理由がすとんと腑に落ちる。

ずっと無意識にしていたことなのに、自分でも信じられなくて動揺が身体を包み、そわそわと落ち着かない気持ちになる。


「あたしの話、していい?」


日菜は、落ち着かないわたしを抱き締めたり、言葉で宥めようとはせず、返事も待たずに話し始めた。


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