いつか、きみの空を。


窓際の葵衣が座っていた場所で膝を抱える。

月明かりに照らされた川面は、まるで夜空を鏡に映したようにキラキラと輝いている。

綺麗なのに、少し怖くて、窓から顔を背けた。


手荷物を何も持っていなかった葵衣が時間を潰せる場所は限られている。

友紀さんのところへ行っているか、もしくはホテルのロビーにいるのかもしれない。

コートも羽織らずに外に出ていることだけは考えたくなかった。


旅先に着いてすら葵衣を部屋に戻りづらくさせるのだから、家に帰ってこないことも当然のように思えた。

わたしのいる場所に、葵衣は帰ってこない。

わたしがいるから、帰ってこられない。


カーテンを引くと、部屋は暗闇に包まれた。

膝を抱え直して顔を埋めると、どうしようもないほどの不安に包まれる。


贖罪だとは言わない。

これは、わたしのためだ。


葵衣に与えているものが必ずしも闇夜のように暗いとは限らない。

わたしがいない場所は、葵衣にとって心地の良い場所なのかもしれない。


テーブルの上に伏せた携帯が小さく振動する。

身を乗り出すようにして確認すると、友紀さんからのメッセージだった。

温泉に行かないか、という内容だったけれど、部屋のシャワーで済ませると返す。

温泉街のホテルの湯を逃すなんて勿体ないと思うけれど、葵衣がどこにいるかわからないのに部屋から出るわけにはいかない。

タイミング悪く、わたしがいない間に戻ってきた葵衣が、無人の部屋を見て何を思うのかはわからないけれど。


まさか見知らぬ土地で一晩帰って来ないことはないだろうと思っていたけれど、二時間が過ぎても葵衣は部屋に戻らない。

すれ違いは避けたくてずっと待っているけれど、埒が明かない。

葵衣を待っている、という体が欲しいというのは、それはあまりにも自分勝手過ぎるだろう。

行き違いになってしまってもいい。

たとえひとりで過ごす方が葵衣にとって心地良かったとしても、わたしが蒔いた種を見て見ぬフリは出来ない。

葵衣のコートを掴んで部屋を出る。

薄暗い通路にぺたりぺたりと一人分の足音が響く。

まだ九時を過ぎたばかりなのに、ここまで暗くする必要はあるのだろうか。

怖いというよりも心細くなってしまい、腕に抱えていたコートを胸に抱く。

エレベーターホールへの曲がり角に差し掛かったとき、小さな音が聞こえた。

人の声、というよりは、くしゃみのような。


「葵衣……?」


恐る恐る、暗闇に向かって呼びかけるけれど返事はない。

覗き込むようにエレベーター前を見渡すけれど、人影すら見えない。


エレベーターホールは通路よりも明るくて、橙色の照明と非常灯の緑色が混じり合い、綺麗というよりは不気味な雰囲気を醸し出している。

思い切って足を踏み出したとき、エレベーター脇に通路が続いていて、そこから仄かにコーヒーの香りがした。

来た時はスタッフ専用の通路か何かかと思っていたけれど、そうではないらしい。

【喫煙ルーム】の文字が反射板になっていて、薄暗いからこそ気付くことが出来た。

そういえば、館内の見取り図にも載っていた気がする。


煙草の匂いではなくコーヒーの香りがすることに違和感を覚えながら、そちらへ足を向ける。


八畳ほどの空間には四方に木製のベンチが置かれていて、真ん中に灰皿が鎮座していた。

隅に配置した方がいいのではないかと思うほど、ベンチとの距離が遠い。

東面にだけ窓枠が組まれており、街灯がいくつか並ぶ駅までの道のりが見えた。

窓側に置かれたベンチだけは背もたれがなく、探していた人はこちらに背を向けて夜空を見上げていた。


「葵衣」


葵衣の肩にコートを引っ掛け、背後から腕を回す。

肩に顔を埋めてゆっくりと息を吸い込むと、よく知る香りがする。

けれど、少し、以前とは違う香りも混じっていた。

それだけ、離れている時間と距離があったから。


抱き締めることは出来なくて、葵衣の胸元で行き場をなくしたわたしの手を冷えた体温が包み込む。


「冷てえ……」


「葵衣の方が冷たい」


お互いに同じことを言っていて、けれど葵衣の手の方が冷たいと感じるということは、わたしの体温の方が高い証拠だ。


人の体温を冷たいと感じるときは自分が温かくて、人の体温を温かいと感じるときは自分が冷たいとき。

そんな当たり前のことを知るためには、触れて感じてみなければわからない。


「あったかいな、お前」


握る、というよりは覆うようにわたしの手に重なる葵衣の手の力は弱々しい。

きっと、戸惑っているからだ。

わたしも、こんなに積極的な行動をしてしまったことに対して、今は少しぼんやりとしている。

わかっているのは、後で後悔をするということだけ。


「葵衣、部屋に戻ろう?」


「……戻れない」


「どうして?」


こんな愚問があるだろうか。

わたしがいるからだと、ずっと知っているくせに。


「聞きたい?」


目を見て何がわかるわけでもないけれど、背後から葵衣を抱き締めている今の状態では、その意図を汲むことは難しい。

聞かない方がいいよ、と葵衣の瞳が訴えているとしても、見えないのだから仕方がない。

ガラス越しに目が合わないように、肩に埋めた顔を上げないまま、小さく頷く。


「花奏と一晩同じ部屋で過ごす度胸が俺にはない」


表情が見えないことに奥歯を噛み締めた。

見えたところで、読めたかどうかはわからないけれど。


「度胸って……」


言葉の使い方が違いすぎやしないか。

堪えられないだとか、もっと直球に嫌だと言うならまだしも、その意味を深読みして察しろというのはわたしには難しい。


「でも、朝までここにいたら風邪引くよ」


何でもいいから、理由をつけて葵衣を連れ戻そうとした。

夜中や明け方はもっと冷え込むのに、コート一枚を羽織らせてわたしだけ戻るわけにはいかない。

同じ部屋で過ごすことよりも、葵衣を放置しておけない気持ちの方が勝る。

だから、さっきの言葉の意味を敢えて勘繰りせずにいる。


「いいんだよ。俺、朝には帰るから」


「……かえ、る……?」


「昼から仕事になったんだ。朝一の電車で帰る」


「それ、友紀さんには言ってるんだよね?」


「いや、姉さんも予定繰り上げて帰るって言い出しそうだから、まだ伝えてない」


確かに、友紀さんならそう言うだろう。

友紀さんが言わなくても、わたしから進言する。

葵衣の肩から顔を上げて、その横顔を覗く。


「なら、尚更部屋に戻らないと」


「しつこいなあ、お前」


笑い混じりに葵衣が吐息を漏らすと、白く燻るように上へと向かい、天井にぶつかってしまう前に、見えなくなった。


「葵衣が戻らないなら、わたしもここにいる」


勝手にしろ、と言われる覚悟で葵衣に回した腕を解き隣に座った。

ずっとくっついていたのをいいことに、ぴったりと腕を触れ合わせて、ついでに葵衣のコートの袖を掴む。


「どうするの?」


葵衣に与えた選択肢は三つ。

葵衣は多分、そのうちの二つしかわかっていない。


ひとつは、二人で部屋へ戻ること。

ふたつめは、二人でここにいること。


みっつめは、わたしがここに残ること。


理由はどうあれ、葵衣がわたしといたくないというのなら、そうしてあげたい。

ここに葵衣をひとり残すという選択肢は排除した代わりに、それだけは譲らない。


自分のコートは持ってきていない。

お風呂上がり用の上着はバッグの底に眠っている。

ボアニットの生地は温かいけれど、少し大きめなサイズだからか裾や袖から忍び込む冷気に身体を縮め込む。

裏起毛のジーンズのおかげで足が冷えないことが幸いだった。


「ほんっと、馬鹿だよ、花奏は」


「そうかな。そっくりそのまま葵衣に返したいんだけど」


たったの数分居るだけで指先まで凍えるほど寒い場所に、かれこれ二時間以上いるのだから。

スリッパから足を抜いて両腕で膝を抱える。

少しだけ、凭れた葵衣の腕に体重を預けた。


夜の静寂に耳を澄ませると、微かな息遣いが聞こえる。

もっと近付いてしまえば、心臓の音までもが聞こえてしまうんじゃないかと思う。


どうせふたりでいるのなら、布団があって空調も効く部屋に戻った方がいいと、葵衣ならとっくに気付いている。

あくまでもここにいるといいたいのだろう。

それならわたしも折れずにそばにいるだけだ。


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