いつか、きみの空を。
緩みはしないけれど、力の抜けた腕から抜け出す。
顔を上げると、葵衣はわたしを見ていた。
お互いに指を離したせいで、床にぺたんと落ちた紙切れには見向きもせずに。
「わかってた。こんなの、花奏は望まないって」
葵衣だって、望んでいないでしょう。
どんな気持ちで、持ち帰っただろう。
どんな気持ちで、名前を記したのだろう。
「慶がそばにいなきゃ、こんなの書けなかった」
「……だから、慶の家にいたの?」
「そう。あいつ、何も言わなかったけどな」
しゃがんだ葵衣の手のひらでくしゃりと歪んだ紙が小さく丸められる。
拳の中に閉じ込められた紙をなかったことにしなければいけないのに、自分でも驚くくらいの俊敏さで葵衣の手を弾いた。
僅かに指が解けた拍子に、隙間から覗く紙を奪い取る。
呆気に取られる葵衣を余所に、部屋の隅のゴミ箱に向かって投げ入れる。
「葵衣があれを後生大事に仕舞っていたら困るからね」
わたしが後から拾い上げないとは言いきれないくせに。
言い訳がましくも、それらしいことを取って付ける。
「これ、わたしはいらない」
日菜に握らされたあと、ポケットに押し込んでいたネックレスを葵衣に突き返す。
胸元に押し付けてパッと離すと、落ちる前に葵衣の手のひらに掬われた。
「俺からのだって、日菜が言ったのか」
「ううん。でも、日菜からのとも言わなかったし、葵衣のチェーンと同じでしょ。わかるよ」
同じものを葵衣と持っていたくない。
形のないものでさえ手放そうとしているのに、形のあるものを残して断ち切ることへの邪魔をさせるわけにはいかない。
「わたし、行くね」
時計を見ると、時刻は十七時を過ぎていた。
行くつもりはなかったけれど、今のわたしには都合の良い約束がひとつあるから、利用する他ない。
冷たくて無機質で、悲しいだけの “ 利用 ” という言葉を使うのは、これで最後にするから。
だから、今だけは橋田くんの名前を出させて。
「橋田くんと会うの。そんなのつけて行けないよ」
そんなの、じゃない。
本当は今すぐ取り戻して、ずっと大事に持っていたい。
唇を噛み締めて、葵衣の横を通り過ぎる。
この部屋に、葵衣を置いて出て行くのは初めてだ。
そもそも、葵衣はわたしの部屋に足を踏み入れていないどころか家に帰ることも疎らなのだから。
家を飛び出して、エレベーターではなく階段を駆け下りる。
嫌な音を立てる心臓を急かしていないと、鼓動が穏やかになったときに色んな感情が押し寄せて来そうで、エントランスを抜けたあとも駅に向かって止まらずに走った。
丁度電車が発車したところで、駅構内に人はいなくなったけれど、わたしは外の壁に凭れて鼓膜の辺りに籠る鼓動が凪ぐように深呼吸を繰り返す。
部屋着のまま、髪も整えずにコートも羽織っていない。
真っ赤な指先を擦り合わせながら、駅前の時計台を見てすぐに駅構内を覗き込む。
橋田くんの言っていた十八時まではあと三十分以上あるけれど、わたしの記憶が正しければ、さっきの電車に乗っていなければ間に合わないはずだ。
次の電車はこの駅に着くのが十八時を十五分過ぎる。
早く着くことはあっても、橋田くんが約束の時間に間に合わないのは考えにくい。
連絡をしようにも、携帯は家に置いてきているし、もしかしたら橋田くんからメッセージが届いていたかもしれない。
身動きが取れないにしても、その場に立ち尽くしているのは堪えられそうになくて、駅の中へ踏み入る。
雪こそ降ってはいないけど、これだけの寒さの中を電車以外の手段で来るわけがない。
ベンチに腰掛けてしばらく俯いていたけれど、ちょうど顔を上げたときに時計の短針が6に重なった。
不思議と怒りや不安、悲しみといったものはなく、どこかホッとする自分がいる。
ずっと騙すような真似をしてきたから、ここらで同じ仕打ちを受けておくべきだと思う。
与えたものが大きすぎて、与えられないことへの渇望が目に見えて主張し出していた。
「さむい」
足音ひとつ、物音ひとつ聞こえない。
ベンチの端っこで、擦り合わせた内腿に生まれた熱を分け与えるように、指先を挟み込む。
次の電車が来るまではここで待っていよう。
家に帰ったら葵衣がいるかもしれない。
わたしが家にいたら葵衣が帰って来られないし、葵衣がいたらわたしが家に帰れない。
もう、以前のような形には戻れない。
少しずつ、時間をかけて確かに歪んでいた。
瞼だけがずっと熱を湛えていて、たぷりと音を立てて眼球の淵から溢れそうになる感情を殺した。
いつかのように、手の甲に爪を立てて、唇を噛み締めて、足の爪先を丸め込む。
そのうち、一瞬だけ駅構内に人が雪崩込んできた。
この辺りで発車メロディが流れるのは主要駅くらいだ。
いつの間にか過ぎ去っていた電車から降りてきた人の中に、橋田くんはいなかったのだろう。
外に出てみたけれど、寒空が地上に近付こうとするばかりで、人影は遠ざかっていくし、見慣れた姿はどこにも見つからない。
空を見上げた。
灰色に淀んだ空が瞳いっぱいに広がっていることを想像すると、身体が竦み上がる。
葵衣をこんな未来に放ることは出来ない。
青い空の下を歩んでほしい。
葵衣の名前がその意味を示すように。
ほぼ真上を見上げて佇んでいると、ギャッと何かが叫ぶような音がして、次いで重いものが倒れる音がした。
その音が割と近くで聞こえたものだから、目を伏せるフリをしてちらりと見遣る。
「真野さん!」
視界に飛び込むように迫ってきて、声を上げる間もなく強く抱き竦められる。
肌に当たるボアニットのパーカーが冷たくて身体を捩るけれど、余計に力を込められた。
「……橋田くん」
息を荒らげる橋田くんの肩越しに倒れた自転車が見える。
ここまで自転車で来たのだろうか。
電車が止まっているわけでもないのに、どうして。
「返信、なかったからもしかしてと思って……まさか、本当にいるなんて……」
「メッセージ、くれてた?」
「うん。って、見てないんだ。その言い方」
声音だけでは橋田くんが怒っているのか心配しているのかもわからない。
それくらいわかるようになっているつもりだったけれど、面と向かって言葉を交わすことでさえ積極的にはしてこなかったのだから、肝心なときに察することが出来ないのも当然のような気がした。
「真野さんが本当にここに来る気がないのなら、一方的に約束を取り付けて待ってるのは自分勝手だと思ったから、無しにしようって送ったんだよ。返信がないから来てみたらいるんだもんな、真野さん」
「返信しないことなんて、これまで何度もあったのに?」
「これまではスルーされていただけでも、今回は違うかもしれないだろ」
「……ごめんね」
「それ、何に対して?」
これまでのことと、今日のことだ。
体のいい無視をしていたことを肯定していいものかと押し黙っていると、耳元で橋田くんが笑った。
「いいよ。真野さんらしいからさ」
わたしらしいって、何だろう。
橋田くんだって気付いているはずなのに。
今更だからではなくて、わたしと橋田くんの関係が卑怯な糸で縫い止められたあの日には知っていたはずのこと。
橋田くんではなくて、葵衣とわたしのすれ違いが彼を少なからず巻き込んでいた。
素知らぬフリはせず、ただ差し出されるだけの優しさが苦しかった。
「前に言ってたよね。好きな人を好きだった人にしないといけないって」
ほんの少し、わたしと橋田くんの間に隙間が出来る。
橋田くんを見上げるよりも先に、紺色のマフラーを巻かれた。
指先が頬を掠めて、包み込む。
「まだ、好きなんでしょう」
この期に及んで嘘を吐く意味なんて、ない。
葵衣とわたし自身に、もう嘘はやめようと言ったのだから。
「……まだ、好き」
けれど、いつかは絶対に過去形にすることが出来るから、それまで待っていて。
虫のいい話だということはわかってる。
どこまで橋田くんの優しさに漬け込めば、申し訳なさが先立ってこんな関係に終止符を打とうと思えるのだろう。