いつか、きみの空を。
どうやって部屋に戻ったのかは覚えていない。
友紀さんに背中を摩られてベッドに腰掛けた気もするし、覚束無い足取りながらに自力で戻ってきたのかもしれない。
明け方前に、誰かが家を出て行く音がした。
きっと、葵衣だろう。
何も言わずに行ってしまうのは、いつも葵衣だから。
わたしはベッドに乗って、ずっと膝を抱えていた。
腰や腕、首の違和感は痛みを通り越して痺れに変わってきているけれど、それでも膝の間に顔を埋め続けた。
待っていたのに、葵衣はこの部屋のドアを開けなかった。
待っていたのに、葵衣は何も言わずに行ってしまった。
遠いビル群の隙間から朝日が覗く。
一瞬、開けっ放しのカーテンから届いた光が足の間を照らして、目が眩んだ。
シーツに残る水分の染みた後を消したくて、体勢を崩しながら乱暴にカーテンを引く。
また膝を抱えようとしたけれど、戻ってきた身体の節々の痛みがそうさせてくれず、頭の言うことなんて聞かない足が床に敷いたラグを踏む。
やめておけ、と心のどこかで叫ぶわたしがいた。
けれど、見たくない現実が待っていることを知っていて、わたしは部屋を出た。
向かう先は、葵衣の部屋。
ノックもせずに開けた部屋の中には、誰もいない。
一度、長く瞬きをして、重い瞼を開ける。
レースカーテンから射す光が眩しくて細めた目にも、現実は飛び込んで来る。
もともと殺風景な部屋だったけれど、あらゆる荷物がなくなっていた。
机の上、キャビネット、壁に並んだ棚のものがすべてなくなっている。
床に置かれていた段ボールも残っていない。
ベッドは骨組みだけになっていて、こんな部屋では葵衣が眠ることも出来ない。
重い身体を引き摺るようにして、ベッドのそばに座り込む。
冷たい金属の骨組みに手を伸ばして、頬を押し付けてみても、葵衣のにおいはしない。
帰ってくる場所すら残さずに行ってしまうほどの覚悟を葵衣は持っていたのか。
段ボールのひとつもないということは、片付けは随分と前に終わっていたのだろう。
葵衣の部屋に踏み入るのは、あの写真立てのマーカーを落とした日以来で、この一年間は覗くことすらしなかったから、知るはずもない。
「写真……」
部屋を片したのなら、あの写真立ても見たはずだ。
棚の一番下、端っこに伏せられた写真立て。
そこにないのはわかっているのに、もう立ち上がることも拒否する身体を床に這わせ、棚に近付く。
この家を実家と思っているのなら、図画工作の作品達まで持っていくことはない。
葵衣はすべてを持って行った。
そう思ったとき、棚の一番下のスペース、その奥に立てかけられたものに気が付く。
立てかけられたものの、影が見えた。
「あ……」
伏せられていたはずの写真立てがそこにないから、もうこの部屋に残されたのは面影の輪郭だけのはずだったのに。
正面に向けて置かれた写真立ては、あの日のもの。
取り出して日に照らされた写真立てを見て、思わず苦く笑ってしまう。
滲んではいるけれど、上手く消せたものだと思っていたのに、マーカーが伸びているどころか葵衣は濃いインクに覆われたまま。
薄らと表情や服のデザインが見えるから、葵衣が後からマーカーを重ねたわけではなさそうだ。
これだけを残して行ったって、どんな意図があるのかわからない。
写真立てを胸に抱いて、木のフレームが微かに音を立てるのも構わずに強く握りしめる。
そのとき、チャリ、と金属の擦れる音がした。
「……これ」
指先に触れた形をわたしは知っていて、反射的に写真立てを裏返す。
透明なテープで写真立ての裏側に貼り付けられていたのは、一年前にわたしが返したものとは別にもうひとつ同じ石がついたネックレス。
よく見ると、わたしのネックレスはチェーンの色が変わっていた。
シルバーのチェーンだったのに、ふたつともゴールドのチェーンに変わっている。
葵衣が変えたのだろうけれど、切れてしまったのなら新しいチェーンに通すのではなく、ふたつの石をくっつけてくれたのなら良かったのに。
あの日、結局暴くことの出来なかったネックレスの先についていた石は、わたしのものと同じだった。
形は違うけれど、同じ石。
ぴったりと重なり合うような形をしていることに気付いて、ふたつを並べる。
思った通り、ひし形に重なる石は、よく見ると色の濃さが若干異なる。
葵衣の石の方が、少し淡い。
光の加減かとも考えたけれど、去年明かりに透かしたようにしてみると、わたしの石の方が濃いことがわかる。
見つけたくなかった。
これを葵衣が持っていると信じていたかった。
こんなにも早く見つけてしまうことを、葵衣も予想していなかっただろうけれど。
ネックレスを写真立てごと持って葵衣の部屋を出る。
もう、きっとこの部屋に入ることはない。
後から靴箱や洗面台、浴室、リビングの食器棚を見て回ったけれど、葵衣のものはひとつ残らず、持って行かれていた。