一番好きな言葉は君の名前。
重たい瞼をゆっくりと開けると、視界いっぱいに広がった木目の天井。
『………っ、』
そして思い出す、あの日のこと。これまでのこと。
体がぶるぶると震えて脳裏にこびりつくフィルムも離れてくれない。
体の上にかかっていた布を喉元まで引っ張ってきつく握りしめると、右耳に入ってきた誰かの足音。
カツカツ、と明るい音がするその靴はあいつらのものとはまた少し違う。
「……あ、目が覚めたのね。………大丈夫?…すごい汗…」
彼女は手に持っていた真っ白なタオルを俺の額に当てて心配そうに眉を下げた。
さっきはぼんやりとしか見えなかったが、彼女はとても小綺麗な格好をしていた。
腕の部分は透け感のあるレース素材になっていて、胴回りは細いベルトで締められている。
俺のようなボロボロの服とは対称的だ。
『……だれ……なの………、お前…』
「…私?私は寿々川雛奈子(すずかわひなこ)。あなたは?」
『…俺………、?俺は……、』
きっと彼女が今言ったのは自分の名前だ。
俺だって同じようなことを言いたいけど、言えない。自分の名前なんて久しく聞いていないし、おかげで覚えてない。
『……分かんねえ……』
「…自分の名前なのに…?もしかして記憶喪失ってやつかな……、」
倒れた時に頭打った、?
なんて呑気に聞いてくる彼女はきっと、この世の非情さを知らないんだろうな。
虐げられる人間のことも。
『…お、まえには……分かんねえよ……、』
「……え、?」
『……お前みたいに呑気に生きてるやつに分かる世界じゃねえって言ってんだよ、』
こんな強気で意地悪い言葉を吐き捨てながらも罪悪感で彼女の目を見れないなんてとことん俺は弱い人間なんだ、と思った。
だからあいつらにも社会からも見放されて-
「………ばか…っ、!」
『…っ?!』
震えた声で怒鳴った彼女は勢い任せに俺の頭を包み込んだ。
目の前に垂れた栗色のふわふわの髪は何だか花と同じ匂いがする。
そうしてつむじの辺りに落ちる雫。
きっと彼女の涙だ。
なんで。なんでお前が泣くんだよ。
何も知らないくせに。
「…何にも知らないなんて、お前なんかになんて言わないで……っ!!」
「確かに私はあなたの全てを知ってるわけじゃないし、あなたにしたら、誰だよ、って感じでしょうけど…!」
「私はあなたのことを知りたいし、あなたと一緒に希望を探したいの。そうして、大きな光に包まれて私たちは幸せになるの。」
『幸せ……、?』
「そう。私たちは幸せになるの。」
俺の両肩を掴んだ彼女の手の平は俺から滲み出た血で真っ赤に染まっていた。