千一夜物語
妖には真名がある。

真名は誰にも明かせるものではなく、本当に心を許した者と血縁者にのみ明かされて、普段は通り名で呼ばれている。

黎という名も通り名でもちろん真名があるのだが――黎はそれを牙にも明かしていなかった。


また意にそぐわぬ者に真名を口にされた場合、その命を奪う場合が多く、秘密主義の黎は血縁者以外に明かしたことがなかった。


「黎…眠れないのですが」


「なんでだ。寝ろ」


抱きしめて離さないまま眠る黎に不平を言った神羅は、黎の手の甲を思いきりつねって寝がえりを打つと、黎と向き合った。

薄暗い部屋に光るその目――だが全く怖いものではなく、小さく息をついた。


「黎…ひとりで寝たいのですが」


「我慢しろ。お前の傷が治るまでは毎日こうする。…ところで神羅」


「はい?」


「俺の…真名を知りたいか?」


「…真名?」


妖の世界では当たり前の会話なのだが、妖の道理を知らない神羅がきょとんとすると、黎はそれを神羅に打ち明けた。


「俺の通り名は黎だが、人でいう本名じゃない。本当の名を妖の世界では真名と言う。誰にも明かせるものじゃない」


「それを私に明かして…どうするんですか?」


「…明かしたいから訊けと言っている」


――愛しい者に真名を口にされると、例え様のない幸福感に包まれると言う。

幸福、快楽、恍惚――とろけるような感覚が魂を揺さぶって、魂と魂が繋がる感じがする――黎はまだそれを体験したことがない。


神羅は黎が真名を打ち明けたがっていることを知りながらも、敢えて首を振って訊かない意思を示した。


「いいえ、まだ訊きません」


「なんでだ」


「まだ知る必要がないから。黎…全てが終わったらお主の真名を明かして下さい。その時は必ず…呼ぶから」


神羅の吊った目が和らぐと、拒絶されたのかと不安になっていた黎は少し安心してまた神羅を強く抱きしめた。


「だから…これじゃ眠れないと言って…」


「俺の真名を訊かない罰だ」


一体自分はどう感じるのだろうか?


はじめて真名を呼ばれたいと思った相手に、何を思うだろうか?


それは想像だけでもとても楽しみで仕方がなくて、童のような表情を見せると神羅は思わず黎の頭を撫でて抱きしめた。
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