千一夜物語
いい人だと思っていたのに――いや、むしろ人でもなく、黎と敵対関係にある男とひとつ屋根の下とは。

昨晩黎と共にあんな甘い時間を過ごしたというのに今日はこの事態…

しかもまだ七尾と名乗っていた時に嫁に来いと言ったのは一体どういうことなのか。


「お姫さん、あんた震えてるじゃないか。もっと火に寄って…」


「私に嫁に来いって言ったのは…どうして?」


「あー…それは…だから…遠野を出た時あんたを見かけて一目惚れして…鬼頭の旦那の許嫁とは知らなかったんだ。それは信じてくれよ」


「鬼頭の旦那って…あなた黎さんを知っているの?」


悪路王は火に小枝をくべながら頷いた。


「鬼族の中でも特別有名なお方だからな。俺たちが小せえ頃から必ず聞かされる昔話に出てくる一族の方なのはあんたも知ってるだろ?鬼八…首が封印されてる首塚の周囲は今も怨念渦巻いて誰も近付かねえ。鬼頭の旦那は祖先の過ちを背負いながら封印し続けてる。…俺の中じゃ英雄さ、絶対に‟裏切りの一族”なんかじぇねえ」


――悪路王は思っていたよりも常識が通じる男なのかもしれない。

そうやってすぐ心を許してしまうのが澪の長所であり短所でもあるのだが、少し緊張を解いて脚を崩して座った澪は、外から聞こえてくる雨音に耳を澄ませながら悪路王を説得した。


「黎さんはすごく強いよ。それに悪路王さんのご両親を殺したのは神羅ちゃんじゃないでしょ?悪路王さんが手を引いてくれたらきっと黎さんだって…」


「乱暴者だった俺を突き放さず愛してくれたか弱い両親を殺されたんだ。人に。無抵抗な父ちゃんや母ちゃんを目の前で…」


ぶわっと殺気が吹き出すと、澪が反射的に座ったまま後退りをした。

はっとした悪路王は、大きな目を細めてなんとか笑顔を作るとぺこりと頭を下げた。


「ごめん。でもあんた…鬼頭の旦那の元じゃ幸せになれねえぜ。だってあのお方は人なんかに懸想してるんだからさ」


「…うん、それは分かってるよ」


独り占めはできない。

それでも傍に居たい――

この身はもう、黎がつけてくれた唇の痕で満たされているのだから。
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