千一夜物語
牛車に乗り込んだ神羅の上空を飛びながらずっと跡をつけていた黎は、嵯峨野のとある小さな寺の前で牛車が止まると、降り立って山林に姿を紛れさせた。


…護衛はとても数が少なく、神羅が信頼を置いている者しか連れてきていない様子だ。

牛車から出て来た神羅を迎え出た寺の坊主や僧たちは、恭しく頭を下げてその手を取り、寺の中へと誘った。


黎は木にもたれ掛かりながら、ずっと待っていた。

こんな山奥の寺に身を寄せるのは、何か理由があるのだろう。

寒さも気にならず、ずっと待っていた。

ずっと、考えていた。

神羅が夫の業平と離れてまでここにやってきた理由を。

責務を放棄してまで、ここにやってきた理由を。


「神羅…何が起きている…?」


――だがその日何かしらの騒動が起こることなく、やむなくその場を離れて百鬼夜行を行った黎は、気が逸ってどうしようもにない想いを抱えながら、敵を屠っていった。

…澪には悪いが、神羅の出産を見届けるまでは幽玄町の屋敷に帰るつもりはなかった。


自身の想いに踏ん切りをつけるいい機会だったから。


――百鬼夜行を終えて嵯峨野の山奥にある寺の前に戻った黎――僧たちが慌ただしく動いているのを見て、息を詰めていた。


「主上が産気づかれたぞ!誰か、湯を準備せよ!」


「!神羅…っ!」


歯を食いしばりながら一報を待った。

数時間経っても寺の中からは神羅の呻き声しか聞こえず、それでも黎はずっと待ち続けた。


「…おぎゃあ、おぎゃああっ!」


――産声が聞こえた後、僧たちの喜びに満ちた声が聞こえた。


「主上!男子ですよ!お喜び申し上げます!」


――鬼族の子ならば、、額に角があるはず。

だとすればすぐに分かるはずだし、そうでないとなれば――業平の子なのだろう。


「そう、か…」


黎はその場をそっと離れた。


神羅のことは、もう諦める。


澪のためにも――

自分の、ためにも。

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