ドS上司の意外な一面
***

 夕方のスキンシップで元気を取り戻した奥さんを見送りつつ、仕事ができないあの男に代わって書類を作ることになる。資料室の鍵を持ってたのが上司の俺だから、いた仕方がない。

 男が手掛けていた書類の不出来さに辟易しながら、あちこちの修正を加えていった。遅くまではかからなかったが、できの悪い部下を持つと上司が苦労するというのが嫌という程に分かった。

(さてさて早く自宅に帰って、夕方の続きをしなければ――)

 帰り道に急ぎ足で歩いていたら後方から何かがついてくる、そんな気配を感じた。

「お前は、あのときの……」

 振り返ってみたら、少し前に家の近くの公園で会ったネコだった。俺の顔をじっと見つめるその姿に、思わず手を伸ばした。顎の下を撫でるとグルグル喉を鳴らして、気持ち良さそうに目を瞑る。

「また巡り会うなんて、何かの縁。ウチに来ますか?」

 両手の平にすっぽり納まるサイズのネコに、思わず微笑んでしまう。名前はどうしましょうか。

「今日の出会いを記念して、:八朔(ハッサク)にしますか。君の名前は八朔です」

 名前を呼びかけると、にゃぁんと愛らしい声で鳴いてくれた。この可愛らしさはきっと、彼女も気に入るであろう。

 抱き締めて歩き出した瞬間に、目の前の通りをベビーカーを押すサラリーマンを発見した。こんな夜に散歩なのか!?

 いぶかしく思いながらそのサラリーマンの顔をじっと見つめると、向こうが俺に気がついて声をかけてくる。

「おや、鎌田くんじゃないですか。久しぶりです」

「今川部長、お久しぶりです」

 頭を下げつつ、ベビーカーの中の赤ちゃんに視線だけ向けた。気持ちよさそうに、スヤスヤとよく寝ている。

「こんな夜に散歩ですか?」

「会長の家から自宅に帰るところなんです。なかなか隆之助を離してくれなくて」

「可愛いですもんね、分かります」

 ――やれやれ、どこも親バカになるんだな。

「鎌田くんは新婚生活を謳歌してるでしょう。以前に比べると雰囲気に柔らかさが出ましたね。しかもネコを連れていて、更に穏やかな表情をしています」

「それなりに楽しんでますよ、色々と。このネコは、さっき拾ったばかりなんです。こら八朔、指を噛むんじゃない」

「もう名前をつけているんだ、可愛いですね」

「はぁ、どうも……」

 普段誉められることがないので、こういうときにどうリアクションしていいか正直分からない。

「うんうん、照れてる鎌田くん見るのも新鮮だなぁ。やっぱり結婚すると変わるんですね」

 ニッコリ微笑む今川部長に困りまくる俺。

「みぃちゃった、見ちゃった!」

 電柱の影からひょっこり出てきた、絶対に逢いたくない人間のひとり今川蓮。表情を曇らせた俺を見て、あちゃーという顔をする今川部長。

「蓮、いつから君は、俺の後をついて来ていたんですか?」

「家を出た瞬間から。おじいちゃんを寝かしつけることにおいては、私ってば天才なのよ」

 エッヘンと胸を張る。相変わらず自信満々な態度のこの女は嫌な奴だな。

「今日はわざわざ新婚旅行のお土産を届けてくれて、どうも有り難う」

「そういえばそうだった、済まない。鎌田くんの雰囲気があまりにも変わったから、記憶が飛んでしまって」

 夫婦揃って、ちぐはぐな表情のまま礼を言われてしまった。

「この間の休みに、届ける事ができれば良かったんですが。お仕事中に、大変申し訳なかったです」

「ひとみちゃん綺麗になったよねぇ。結婚してから、ますます人妻オーラ全開みたいな」

「そうですか、そりゃどうも」

 乾いた声色で答えてやる。本当はもっと大喜びしたいところだが喜んだ姿を見せた途端に、目の前のコイツがどんな態度になるのか、考えただけでも頭が痛い。

「あの色っぽい雰囲気は相当ヤバいと思うな。実際うちの会社でも何人かの社員に、声をかけられたみたいだし」

「そんな話、聞いていませんが?」

「ホントに馬鹿ね。アンタみたいに執着心の強い男に他の男からアプローチあったことが、素直に言えるワケないじゃん。間違いなく機嫌悪くなるのが、あからさまに分かるんだしさ」

「蓮、そろそろ鎌田くんを刺激するような話は、ほどほどにした方が……」

 俺の顔色を伺いながら、自分の奥さんを制す今川部長。

「彼女は俺に、隠し事なんてしません」

「そういう高圧的な態度が、ひとみちゃんを貝にするのよ?」

「アンタのように無駄口叩かないのは、彼女のいいトコです」

 しょっちゅう変な発言をしますが、そこも可愛らしいんです。

「まったく。瞳ちゃんのことになると、目の色変えるんだから。大丈夫、さっきのアプローチの話は真っ赤な嘘だから。ほら、夏ミカンが怯えてるわよ」

「夏ミカンじゃないです、八朔です」

「済まない、鎌田くん」

 ペコペコと何度も自分に頭を下げる。

「監督不行き届きですね、相変わらず」

 隣で必死に頭を下げる旦那を見ても、平然としていられるコイツの神経が分からない。

「夏ミカンでも、八朔でも同じじゃない」

「蓮、八朔の朔は月の始めという意味があるんです。今日は八月一日でしょう、そこからとっているんですよね?」

 今川部長が博識で助かる、俺は素直に頷いた。

「マットもぅ帰ろう。コイツの傍にいるとイライラして、お肌が荒れちゃう」

「俺も同感だ、八朔が穢れてしまう」

 睨みあう俺たちに、今川部長がまぁまぁとその場を治めた。

「それじゃあ鎌田くん、今度仕事の話をしながら、ゆっくり」

 右手に、ジョッキを持つ形を作る。

「そうですね」

 俺が微笑むと、途端に嫌そうな顔をする今川蓮。

「ダメよ、マットってば。新婚さんのラブラブ邪魔しちゃ。きっと呪われるんだから」

「それじゃあ鎌田くん、ごきげんよう!」

 ベビーカーを片手で操作しつつ、強引に奥さんの手を引いていく今川部長。苦労が手にとるように分かりすぎる。

「さて八朔、俺らも急いで帰らなきゃですね」

 抱き直して、小走りで自宅に帰る。きっと首を長くして、君が待っているのが分かるから。
< 52 / 87 >

この作品をシェア

pagetop