ドS上司の意外な一面
*** 

 月末は忙しいと言ってた兄ちゃ。あの後から少しずつ、帰宅時間が遅くなっていった。姉ちゃもいつもよりは遅かったけど、兄ちゃ程ではなく、オイラと一緒に晩ゴハンを食べていた。

「正仁さん、今日も遅いね」

 最近そんな独り言を言いながら、寂しそうにゴハンを食べる姉ちゃ。疲れて帰ってくる兄ちゃを気にしてなのか、兄ちゃが帰宅しても以前のように楽しそうな会話がなかった。

 お仕事場が一緒だからそこで喋ってるのかにゃとオイラなりに考えてみたけど、仕事が忙しいと言ってる兄ちゃに果たして、話しかけることができるのかにゃ? 兄ちゃは怒らせると怖いから――

 それは二人の会話が減る一方で、姉ちゃのため息が増える矢先の出来事だった。

 お外が暗くなり、オイラのお腹が鳴り始めたときだった。玄関から鍵を開ける音が聞こえる。

(姉ちゃが帰ってきたんだ)

 喜んで玄関に向かって、お出迎えすべくダッシュ! マットの上に、ちょこんと座って待ち構えた。ゆっくり扉が開き姉ちゃが入ってきたのだけれど、うつ向いたまま無言で扉を閉める。いつもなら「ただいま八朔」って言ってくれるのに、どうしたんだろ?

 ゆっくりした足取りで中に入って行く、姉ちゃの横を歩いた。様子が変なので、とりあえず鳴いてみた。

「にゃ、にゃん?」(どしたの?)

 それが合図になったのか持っていたカバンをドサリと落として、ガクッと膝を床についた瞬間に、姉ちゃが大泣きしたのだ。

「うっ、うう~っ……」

 顔を両手で押さえて泣く姉ちゃ。オイラは、どうしていいか分からずにウロウロした。こんなときはど~すればいいのにゃ?

 姉ちゃの膝に前足をかけて顔を覗き込んだり、後ろにあるソファの背もたれに上がり、姉ちゃの頭を前足使って触ったり――だけど全然泣き止まないにゃ、オイラが泣きたい気分になってきた。もうこんなときに限って、兄ちゃはいつもいないんだから。

 この間、姉ちゃが具合が悪くなってベッドで寝てるときに。

「み、水飲みたい……」

 って言いながら、苦しそうにうなされていて。それを見たからオイラは、自分のお皿に入ってる水を運ぶべく、頑張って動かそうとしたけど失敗……。床にこぼした水を前に、ガーンと落ち込んだのである。

 自分の不甲斐なさを思い出してシュンとしていたら、姉ちゃの両手がオイラの体を掴んで、そのまま胸の中に抱き締められてしまった。見上げると泣き止んでたけど、すごく辛そうな顔をしている。

 姉ちゃ、どしてそんな顔してるにゃ? オイラこんな頼りないオスだけど、何かして欲しいことはないかにゃ?

 思いがいっぱいいっぱいで、言葉にならない。口をパクパクするのが精一杯だった。

「何か言いたげだね、八朔」

 姉ちゃの掠れた声が聞こえた。

 フーッと一つため息をついてからオイラを抱っこしたまま、服の中に入ってたスマホを取り出す。慣れた手つきで何かを押し、左耳にあてがった。近いせいかオイラの耳にも、機械的な呼び出し音が聞こえる。

「もしもし、ひとみです。今、大丈夫でしょうか?」

『大丈夫だけど、ちょっとその声どうしたの。風邪?』

 電話の相手は女の人だ、姉ちゃよりも声が高い。お友達なのかにゃ?

「少し風邪気味なんです、薬飲んで一晩寝れば大丈夫ですよ。あの少し聞きにくいことなんですけど、質問していいですか叶さん」

『聞きにくいことね、何かしら?』

 叶さんと呼ばれる人は、とっても明るい声で返事をしている。姉ちゃがいつもと違うと、察知しているからなのかにゃ?

「山田さんと付き合う前に、不倫してたって前に言ってましたよね。それって社内でなんですか?」

 フリン? 何か美味しそうな食べ物?

 不思議顔したオイラを抱き締める腕に、力が入ったのが分かった。

『そうか、ひとみちゃんに詳しく教えてなかったもんね。そうよ社内、自分の上司だった人なんだけどね。当時、仕事の悩みとか相談してる内に恋愛感情が芽生えちゃって、向こうも奥さんと別居中で。結果お互い、なるようになっちゃったワケ』

「そうなんですか」

『やだひとみちゃん、もしかしてまさやん君よりも、いい男を見つけたの?』

「ははっ、それなら良かったんですけどね……」

 口元だけ微笑んでいる姉ちゃ、目には涙が溜まっていた。

『はあ? まさやん君が不倫!? そんなのあり得ないわよ』

「叶さんも、自分が不倫するなんて思わなかったんじゃないんですか? たまたま相手には、奥さんがいたっていうだけで」

『う~ん、確かにね。だけどひとみちゃんにぞっこんの、まさやん君がっていうのが信じられないのよ。証拠はあるの?』

「確実な証拠はないんですけど、何か変なんです。よそよそしい感じで」

 目から涙がこぼれて、オイラの狭い額に落ちた。

「最初に異変に気付いたのは、私の目の前にいる先輩なんですけど、仕事中に正仁さんがある女性を見つめていたんです」

『疲れてぼーっとしてたトコに、たまたまその女性がいたんじゃないの?』

「私もそう思いたかったんですけど、視線が何だか優しい感じだったんです。発見した先輩がいつものレーザービームじゃなく、ラブビームだよなぁって言って苦笑いしていて」

『ひとみちゃんだけじゃなく、第三者も異変に気付いたのか。他には何かしらあったの?』

「その後廊下で、ちょこちょこ話してるのを見かけるようになって」

 言いながらどんどん涙が頬をつたって、ポタポタとオイラの頭を直撃した。

「今日は彼女が泣きながら、正仁さんの胸の中に飛び込んで……。そんな彼女の肩をポンポン叩いて慰めてから、空き会議室に入って鍵をかけて二人きりになってました」

 最後の言葉は泣き声になってるから、何を言ってるか分からなかったオイラ。叶さんは分かったのかにゃ?

『二人きりになったって言っても、すぐ出てきてんでしょう?』

「……五分くらいで彼女が先に出てきました。ちょっとしてから正仁さんも出てきてました」

『だったら何もなかったんじゃない? 彼女を落ち着かせて、話を聞いたくらいの時間だと思うけど』

「五分もあれば正仁さんなら、あんな事やこんな事ができちゃうんですっ!」

 さっきまで何を言ってるか分からなかったのに、突然大きな声を出した姉ちゃに驚いてビクッとした。

『ひとみちゃん大丈夫? 自分が何を言ってるのか、理解できてる?』

 コロコロ変わる姉ちゃのことを心配しているのだろう。間近で見ているオイラもハラハラしている。

「大丈夫です。正仁さんを一番分かってる私だからこそ、あの場で何が起きたかが想像できるんです」

『ひとみちゃん……。発言もだけど、想像力もかなりアブナイ状態になってるわよ』

「最近忙しくて、すれ違ってばかりで」

『そう、会話がなくて辛いのね』

「会話は最低限なのをしてますけど、夜の営みが全然なくって」

 寂しそうな顔したままオイラのしっぽを弄る。泣いてるよりはマシかにゃ?

『なるほど。つまり欲求不満なのね、ひとみちゃん』

「私じゃなくて、正仁さんがです。だからよその女の子に手を出したりして」

『手を出したかどうか聞いてみたらどう? 実際は証拠はないんだし』

 笑いを含んだ声が聞こえてきた。姉ちゃは泣いたり怒ったり、今は困った顔をしている。

「聞けたら叶さんに電話なんかしませんよ。聞いた時点で愛情を疑ってるみたいに思われたくないですし、仮に浮気が事実でそれを正仁さんの口から聞いたら、死んじゃうかもしれません」

 そう言うとまたポロポロと涙を流し始めた。

『過度な想像力が働いて、かなり情緒不安定になってるわね。この件は私が直接、まさやん君に聞いてあげるから心配しないで』

「でも」

『その代わり私が困った時は助けてもらうからね。だから安心して』

「だけど正仁さん今夜は遅くなるから、晩御飯はいらないって言ってたんです。もしかして昼間の続きをするんじゃないかなって」

『昼間の続きする暇はないわよ。うちの賢一と仕事一緒にする約束してたから。ほら例の月末までに仕上げなきゃならないヤツ、まだできてないのよ』

「そうなんですか、何だ良かった」

『ふふっ、ひとみちゃん心配しすぎなんだから。早く帰れるように、賢一にカツ入れておくから』

「ほどほどにしてあげて下さい。すみません、ご心配おかけしました」

『少し元気になったみたいね、あまり考えこまないようにしなさいよ。それじゃあね』

「はい、失礼します」

 笑顔になったねぇちゃが、スマホを耳から外して指で触れる。

「考え込まないようにか。確かにそうだよね、落ち込んでるときだから悪いことしか思い浮かばないし」

 右手でオイラを抱っこしたまま立ち上がり、左手をグーにして上に伸ばした。

「正仁さんが愛してるのは私だけっ。浮気なんかしてるハズないっ、疑う必要ナシ! ねっ八朔」

 無理に元気出してる姿が痛々しくて、どうしていいか分からず眉間にシワを寄せたら、プッと吹き出した姉ちゃ。

「八朔ホントに正仁さんと似てきてるよ、目付きがそっくり」

「にゃ、にゃん」(そうですかい)

「大泣きしたらお腹空いちゃった、晩御飯食べようか」

「にゃん」(賛成)

 とりあえず、姉ちゃの機嫌が良くなって一安心。叶さんという人間に感謝しなければにゃ。オイラの好きなモノ図鑑にまた一人、名前が載った瞬間だった。
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