Piano~ピアノ~
Piano:叶side⑰
***
「中林チーフ、受付からお電話です」
(集中しなきゃならない仕事中に、一体誰なのよ? しかもアポなしじゃない!)
ちょっとイライラしながら、電話に出る。
「もしもし、中林ですっ」
「受付です。アポなしなんですが、どうしても話をしたいと○○会社の鎌田様がお見えなんですが……」
「○○会社? そんな会社、聞いたことがないわ。鎌田さんのフルネームは?」
「えっと鎌田……まさひと様だそうです」
その名前を聞いて、やっとピンときた。まさやんくんじゃない! 彼がわざわざ来るってことは、賢一に何かあったんじゃ……。
「会うから、そのままロビーに待たせて下さい」
デスクの上を適度に片付けつつはやる気持ちを抑えて、その場をあとにする。
エレベーターを待つのがもどかしくて、階段を使って一気に下まで降りた。
「突然お邪魔して、申し訳ないです」
私の顔を見るなり告げられた、第一声のまさやんくんのセリフ。きっちり頭を下げることを忘れない。
いつもとは違うその真摯な姿勢に、言葉を出せなかった。
「随分と酷い顔をしてますね、肌の色つやも悪い。この間会った病人のときの方が、いい顔をしていましたよ」
「色つや悪いって本当にアナタって、失礼なことを平気で言うのね」
さっきは謝っていたくせに、途端に毒づくこの態度。
しかし今日にいたっては、ニコリともしない。だから尚更ザックリとくる。
「まぁアナタが酷い顔をしていようが、俺にはまったく関係ないんですがね」
「今日はわざわざ、それを言いに来たんじゃないんでしょう?」
「ええ、お礼を言いに来たんです」
口元をほころばせるがメガネの奥の瞳は、まったく笑っていなかった。
喜んでいるように見えない……。一体、何?
冷たい眼差しに、言葉を失っていると、
「賢一が今、スゴイんですよ」
なんでいつも使っている、けん坊って呼び名を言わないんだろう。しかも賢一という言葉を聞いただけで、胸がぎゅっと絞られてしまう。
まさやんくんの視線にどうにも居たたまれなくなり、思わず俯いてしまった。
「名前を聞くのも辛いですか……。じゃあ何で自分から、別れを切り出したんです?」
渋々顔を上げると、腕組みをしたまさやんくんがいた。まるで上司に叱られている、部下の気分――。
「アナタのその不抜けたツラと違って、賢一は仕事に打ち込んでます。鬼人のごとくにね」
賢一……頑張ってるんだ。
「部屋もキレイさっぱりアナタの私物を片付けて、いつでも新しい恋人を迎い入れる準備もできている」
ドクンと心臓が鳴る。新しい恋人――
「ああ、一応付け加えるけど別れるきっかけになったあの女は、別の男と付き合うことになった。賢一がわざわざ手助けしなくても、大丈夫だったらしい」
「…………」
「賢一の人の良さには困ったもんだ。でもそれ以外に関しては、アナタにお礼を言わなければならない。アイツの仕事のスペックが高いのは、アナタの教えがあるだろうから。お陰でいい仕事ができる」
そして満足げに微笑んだ、まさやんくん。
「大学時代から、アナタの傍にベッタリいたんだ。仕事に対する姿勢や考え方、その他マナーなんかをきっちり仕込んだんでしょう?」
「そんな……私はきっちりになんか、仕込んじゃいないけど」
「賢一がよく、俺に泣きついて来てました。叶さんが厳しい過ぎるって。だがアイツは変なところでドジを踏むから、ボロが出ないように、教育という名の調教をしていたんでしょうね」
「調教って……」
「俺の目から見たらアナタたちは恋人というよりは、主従関係に見えましたが?」
さらりとヒドイことを言う、まったく遠慮なし。だけどあながち間違いでもないので、あえて否定をしなかった。
そんな私の様子に片側だけ口角を上げて、笑いながら話し出した。
「主人の言うことを忠実に聞く賢一犬は、自らを手放したご主人様を怨むこと無く泣くこともなく、毎日仕事を頑張っていました」
賢一がなぜか、犬になっている……。でも想像すると、何となく似合ってる気がした。
物語仕立ての話を、苦笑いしながら耳を傾けてみる。
「ある日賢一犬は、大きな仕事に行き詰りました。仕事相手が言いました。『君のような賢い子に、ぴったりなご主人様がいるんだけど』と。仕事が成功した暁には結婚して、新しいご主人様と一緒に会社を立ててみないかって。課長山田賢一の野望、再びって感じです」
「新しいご主人様……」
血の気がスッと引いた。
「アナタが丹精込めて育てた賢一が、ヘッドハンティングされるかもしれない、いい話じゃないですか。ちなみにこの話の仲介人は俺です」
「な、なんで、そんな話……」
喉がカラカラだったけど、何とか言葉を出した。
「資源の有効利用。あんな小さい会社で燻らせておくのは、勿体ない男だから」
「…………」
「アナタが知ってる賢一は、もういない。しっかり地に足をつけて歩いている。後ろを振り返らずに、まっすく前だけ向いて歩いている。それもアナタの教えでしょう?」
そう言うと、目の前にメモ紙を置いた。
「今夜ここで、商談が行われます。時間はそこに書いてある通り。実際自分の目で、賢一を確かめてみたらどうです? 今のアナタの顔を見たら、間違いなく軽視するでしょうけど」
椅子から立ち上がったまさやんくんを見送らなきゃならないのに、立つことができなかった。体が固まって、指先ひとつすら動かせない。ただ目の前にあるメモ紙から目が離せなかった。
「それじゃあ、中林さん御機嫌よう」
爽やかに去っていく後姿をやっと見た。
振り返ること無く去って行く姿に、賢一を重ねる。
賢一、今アナタは何をしているの? どこを見ているの?
「賢一――」
「中林チーフ、受付からお電話です」
(集中しなきゃならない仕事中に、一体誰なのよ? しかもアポなしじゃない!)
ちょっとイライラしながら、電話に出る。
「もしもし、中林ですっ」
「受付です。アポなしなんですが、どうしても話をしたいと○○会社の鎌田様がお見えなんですが……」
「○○会社? そんな会社、聞いたことがないわ。鎌田さんのフルネームは?」
「えっと鎌田……まさひと様だそうです」
その名前を聞いて、やっとピンときた。まさやんくんじゃない! 彼がわざわざ来るってことは、賢一に何かあったんじゃ……。
「会うから、そのままロビーに待たせて下さい」
デスクの上を適度に片付けつつはやる気持ちを抑えて、その場をあとにする。
エレベーターを待つのがもどかしくて、階段を使って一気に下まで降りた。
「突然お邪魔して、申し訳ないです」
私の顔を見るなり告げられた、第一声のまさやんくんのセリフ。きっちり頭を下げることを忘れない。
いつもとは違うその真摯な姿勢に、言葉を出せなかった。
「随分と酷い顔をしてますね、肌の色つやも悪い。この間会った病人のときの方が、いい顔をしていましたよ」
「色つや悪いって本当にアナタって、失礼なことを平気で言うのね」
さっきは謝っていたくせに、途端に毒づくこの態度。
しかし今日にいたっては、ニコリともしない。だから尚更ザックリとくる。
「まぁアナタが酷い顔をしていようが、俺にはまったく関係ないんですがね」
「今日はわざわざ、それを言いに来たんじゃないんでしょう?」
「ええ、お礼を言いに来たんです」
口元をほころばせるがメガネの奥の瞳は、まったく笑っていなかった。
喜んでいるように見えない……。一体、何?
冷たい眼差しに、言葉を失っていると、
「賢一が今、スゴイんですよ」
なんでいつも使っている、けん坊って呼び名を言わないんだろう。しかも賢一という言葉を聞いただけで、胸がぎゅっと絞られてしまう。
まさやんくんの視線にどうにも居たたまれなくなり、思わず俯いてしまった。
「名前を聞くのも辛いですか……。じゃあ何で自分から、別れを切り出したんです?」
渋々顔を上げると、腕組みをしたまさやんくんがいた。まるで上司に叱られている、部下の気分――。
「アナタのその不抜けたツラと違って、賢一は仕事に打ち込んでます。鬼人のごとくにね」
賢一……頑張ってるんだ。
「部屋もキレイさっぱりアナタの私物を片付けて、いつでも新しい恋人を迎い入れる準備もできている」
ドクンと心臓が鳴る。新しい恋人――
「ああ、一応付け加えるけど別れるきっかけになったあの女は、別の男と付き合うことになった。賢一がわざわざ手助けしなくても、大丈夫だったらしい」
「…………」
「賢一の人の良さには困ったもんだ。でもそれ以外に関しては、アナタにお礼を言わなければならない。アイツの仕事のスペックが高いのは、アナタの教えがあるだろうから。お陰でいい仕事ができる」
そして満足げに微笑んだ、まさやんくん。
「大学時代から、アナタの傍にベッタリいたんだ。仕事に対する姿勢や考え方、その他マナーなんかをきっちり仕込んだんでしょう?」
「そんな……私はきっちりになんか、仕込んじゃいないけど」
「賢一がよく、俺に泣きついて来てました。叶さんが厳しい過ぎるって。だがアイツは変なところでドジを踏むから、ボロが出ないように、教育という名の調教をしていたんでしょうね」
「調教って……」
「俺の目から見たらアナタたちは恋人というよりは、主従関係に見えましたが?」
さらりとヒドイことを言う、まったく遠慮なし。だけどあながち間違いでもないので、あえて否定をしなかった。
そんな私の様子に片側だけ口角を上げて、笑いながら話し出した。
「主人の言うことを忠実に聞く賢一犬は、自らを手放したご主人様を怨むこと無く泣くこともなく、毎日仕事を頑張っていました」
賢一がなぜか、犬になっている……。でも想像すると、何となく似合ってる気がした。
物語仕立ての話を、苦笑いしながら耳を傾けてみる。
「ある日賢一犬は、大きな仕事に行き詰りました。仕事相手が言いました。『君のような賢い子に、ぴったりなご主人様がいるんだけど』と。仕事が成功した暁には結婚して、新しいご主人様と一緒に会社を立ててみないかって。課長山田賢一の野望、再びって感じです」
「新しいご主人様……」
血の気がスッと引いた。
「アナタが丹精込めて育てた賢一が、ヘッドハンティングされるかもしれない、いい話じゃないですか。ちなみにこの話の仲介人は俺です」
「な、なんで、そんな話……」
喉がカラカラだったけど、何とか言葉を出した。
「資源の有効利用。あんな小さい会社で燻らせておくのは、勿体ない男だから」
「…………」
「アナタが知ってる賢一は、もういない。しっかり地に足をつけて歩いている。後ろを振り返らずに、まっすく前だけ向いて歩いている。それもアナタの教えでしょう?」
そう言うと、目の前にメモ紙を置いた。
「今夜ここで、商談が行われます。時間はそこに書いてある通り。実際自分の目で、賢一を確かめてみたらどうです? 今のアナタの顔を見たら、間違いなく軽視するでしょうけど」
椅子から立ち上がったまさやんくんを見送らなきゃならないのに、立つことができなかった。体が固まって、指先ひとつすら動かせない。ただ目の前にあるメモ紙から目が離せなかった。
「それじゃあ、中林さん御機嫌よう」
爽やかに去っていく後姿をやっと見た。
振り返ること無く去って行く姿に、賢一を重ねる。
賢一、今アナタは何をしているの? どこを見ているの?
「賢一――」