スリジエの花詞
「待ってっ…!」


気づけば、私はそう叫んでいた。
だって、伊尾が。伊尾が私の傍からいなくなると、父が言ったんだもの。


「何だ? 雅」


「い、嫌です…! 執事が、伊尾じゃなくなるなんて」


父は不思議そうに首を傾げると、「何故?」と私に問いかけてきた。

何故、って。そんなの、伊尾以外に考えられないからじゃない。

そう思ってはいても、言えなかった。
私には、伊尾でなくてはならない理由があるけれど、父には私の執事を伊尾にする理由がないのだろう。

顔を俯かせて何も言えなくなった私へと、父の呆れたようなため息が落とされる。


「伊尾はお前が子供の頃から仕えていたから、愛着があるのは分かるが。嫁ぎ先に連れては行けない」


「っ…、」


父は「言いたいことはそれだけか」と言うと、美知子さんを連れて部屋を出て行った。

残された私は、震える唇を噛みしめながら、冷たくなった手のひらを握りしめた。


「…お嬢様、帰りましょう」


無意識に力を入れていた肩をほぐすように、伊尾の温かい手のひらが乗る。

私は静かに頷き、伊尾に連れられるがままに車に乗った。


車内は終始無言だった。

伊尾と十三年間過ごした家へと帰る途中、私は一度もミラーを見なかった。

馬鹿で自分勝手な私は、伊尾が私のことを見ていたことにも気づかなかったんだ。
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