ブロンドの医者とニートな医者
アップルパン
律子のおかげで、というか、せいで今日は仕事が一日中手につかなった。
別に、彼氏が医者じゃなかったとしたら、それでもいいとは思う。
けどもし、本当に医者じゃなかったとしたら、嘘をついていたということになる。
内容よりも、その嘘をついているということの方が大きい。
確かに、医者はモテるとは思う。だからといって、みんながみんな、医者だからその人を好きになっているわけではない。
今の彼氏のことは好きだ。優しいし、控えめだし、上品だし、レディファーストだし。だけど、医者の話をしたいと思ったことは一度もない。
でもそれって、本当に好きなんだろうかと少し思う。
もし、本当に好きなのなら、彼氏のすべてを知りたいとか思うんじゃないだろうか。自分の愛情不足が故の、「何も知らない」につながっているのではないだろうか。
……逆に、彼は私のことを知っているだろうか。
思い返してみても、仕事の話はあまりしない……ような気はする。お互いが知らないのなら、そういうカップルということで良い気もするが、お互い何も知らないって、それもどうなんだろう。
話が堂々巡りし、帰宅は簡単に21時を超えそうになる。こういう時は、例のパン屋で昼間のクロワッサンとはまた違う、パリパリのアップルパンを、コンビニでいちごオレを買って、甘々で夜を迎えるのだ。
そのパン屋は病院からの需要がたくさんあるのか、22時まで営業しているカフェ兼テイクアウトができるパン屋さんである。しかし、この時間にはさすがに人がいないし、パンの種類も随分減っている。
それでも、あまり人気のないアップルパンはおそらくこの時間でも残っているはずだと確信して、重いガラスのドアを押し開ける。
「いらっしゃいませ」
と、控えめな声と共に目の前に見えたのは、よく見る常連客の男性だった。
男性は、ちら、とこちらを見て、またショーケースに目を向ける。
パン屋なのに、セルフではなく、ケーキ屋さんのようにショーケースに入っているため、レジがよく混むのだが、その男性がアップルパンを何度か買うのを奏は見たことがあった。
おそらく、年齢は30くらいだと思うが、黒のジャージにサンダル、紺色っぽい薄いティシャツがお決まりの恰好で、おそらくニートじゃないかと思う。
多分今日も、パソコン作業が一段落ついたとかで、パンでも買いに来たんだろう。
妙に目つきが鋭いのが印象的で白い肌にそれがよく映えてはいるが、黒い髪の毛は何のセットもされておらず、時には寝ぐせがついている。
若干丸まった背中で、パンを買うお金はどこから出ているんだろうと、数百円の出費も気になるくらいだ。
「……はい」
男性は、ポケットからスマホを取り出すと、すぐに耳に当てて外に出た。スマホも持っていた!という驚きを隠しつつ、順番がきたので、ショーケースの前へ並ぶ。
レジの女性は、視線を店内のカフェのテーブルへと逸らしていた。
「……」
アップルパンは1つしかない。
気になって、後ろを見てみると、男性は、外の入り口付近でまだ電話をしている。
今のタイミングでこれを買うべきかどうか、待つべきか、別の物を買って自然に店を出るべきか。
レジの女性はこちらが注文するのを待っているし、電話がどのくらいかかるのかわからないし……。
「…えーっと」
とりあえず、悩むふりをだれともなしにしてみる。
できることなら、早く電話が終わって来てほしい。それで、アップルパンを買ったとしても、その日はあきらめるから、でも、できたら別のパンを買って欲しい!と願ったところで、背後でドアが開いた。
奏は、ほっとしてすぐにさっと端に寄り、男性に場所を開けた。
「……」
ちら、とこちらを見た男性。
「……」
だが、自分に順番がきたんだろうと、察したようで、「アップルパイ、1つしかないの?」と店員に聞いた。
アップルパンなのになあ……と、多分、店員も思ったと思う。
「すみません、こちらに並んでいるだけになります」
この時間だし、当然だろう。しかも、店員にタメ口だし……。
「アップルパイ、買う?」
突然話しかけられた奏は、目を丸くして男性を見た。
ポケットに手を突っ込み、背中を丸くした姿は、やはりニートだった。
「いえっ、大丈夫です」
奏は顔の前で手を振り、後ずさりして答えた。
「あそう。じゃ、アップルパイ1つと、これと、これ」
「はい、かしこまりました」
あー、やられた……。しかも、ハーブパンとか食べるんだ。そういえば、カボチャパンを買ってた時もあったな。ここの野菜で栄養補給してるんだろうか。
男性が出て行くと、ようやく次の順番が回ってくる。アップルパンはないし、苦手なハーブパンくらいしか残ってないし。でも何も買わないわけにはいかないので、とりあえず、この中でも一番好きなクロワッサンを買って出た。昼間と同じだが、仕方ない。後、5分早く出ていれば、こんなことにはならなかったのに、とくだらない後悔をしながら、一歩進む。
「……」
外にはまだあのニートがいた。
どうしよう、後をつけられたりしたら……。
恐る恐るその前を横切ろうとすると、
「アップルパイ、買うつもりじゃなかった?」
突然、しかもまさか、1つ200円弱のパンのことを根に持たれていたとは思いもせず、
「いいいい、いえっ」
咄嗟に、警察を呼ぼうかと考えた。
夜道で話しかけられることほど、怖いものはない。奏は、無意識に手を体に引き寄せると、パンが入った紙袋を抱きしめた。
「はい。なんか、欲しそうだったから」
と言って、紙袋から、個別にしたビニール袋を出して手渡そうとしてくる。
絶対ヤバい!!
「いいいい、いえ! わ、わた……」
その時、バイブ音が微かに聞こえた。
「……もしもし?」
男は右手のパンはそのままに、左手で再び電話に出る。
「……うん、……うん……」
視線が鋭い。どうしよう、今の間に逃げようか。逃げたら追いかけられるだろうか。電話の相手はやっぱり母親だろうか。
「……今前のパン屋。すぐ行くから輸血の用意。助手は久留米(くるめ)でいい」
そしてそのまま切る。まさに、まるで医師らしい指示だったが。
「あ、いらない……」
男性はそのままパンを袋に戻して、方向転換して足早に行ってしまう。
え、まさか、本当に医者?
疑うことなく、彼はそのままパン屋の前の横断歩道を渡り、都立病院に入って行ってしまう。
しばらく、その後ろ姿を見ていた。
あの男を見かけたのはいつ頃からだろう……。就職して……あのパン屋に寄るようになったのは、いつ頃からだろうか……。1年……それくらいはたっているかもしれない。
その間、行かない時は数か月行かないのだが、最近再び行き始めて、意識して見かけるようになった。
レジ待ちの時、アップルパンを何度か買っているのを見た。でも朝の7時半とかで……その時は意識してニートだと思ったことはなかったが、よく見かけるが、何をしている人だろうとは思っていた。
それがまさか、この病院の医者だったとは。
輸血の用意、助手は久留米で、ということは、外科医だ。
全くもって予想しない展開……。でもただそういう会話をしたふりをしただけで、病院にも行ったふりをしただけかもしれない。
奏は少し興味が沸いて、外灯が灯る病院に近づいてみようと、今しがた男が渡ったばかりの横断歩道を同じように渡り、その敷地の中に入った。
緊急夜間入り口という文字が見えて、そこに人影が映る。カードをかざして中に入って行ったのは、間違いなく、さっきの男性だった。
医者っていろんなところにいるんだ……。昼間の律子の彼氏が、まさか、さっきの男性ではないと思うが……。まさかそれはない……。
それはない……とは思うが……。しかし、律子の性格からして、医者の彼氏の存在を隠し続けていたのは不審だ。もっとアピールして結婚を語ってもよさそうなのに、何かそれなりの事情があるとか……例えば、彼氏があんまりイケてないとか。医者だというけど、あまりイケてないとか、というのは十分あり得る。
さっきの男性がイケてないということではない。パッと見は確かに、服なんかはジャージで全くの無頓着だが、顔はそれなりに整っている。
どうだかなあ……と、思いながらも、引き返し、元の横断歩道のところでパン屋の道へ戻ろうと信号を待っていると、
「あのー!!!」
背後からおじさんが走ってきた。スラックスにマークが入った水色のシャツを着ている。病院の警備員だろうか。
「はい」
敷地には足を踏み入れたが、それだけである。文句を言われるはずはない奏は、それでも内心ドキドキしながら、平常心で答えた。
「あの、さっきの。……」
走ってきたせいで息が切れている。
その間に信号が再び赤に変わった。
「大河原先生が、これ……」
って、さっきのパンだ!
「え?」
とりあえず、わけが分からないふりをする。
「渡してくれって頼まれたんです」
受け取ってもらわなければ困るとでも言いたげに、ずい、と紙袋を差し出してくる。
奏は仕方なくそれを受け取った。 重さからみて、ハーブパンも入っている。
「、じゃあ、これで」
警備員は、留守にしてきた緊急入り口が気になるのか、すぐに引き返してしまう。
「あ、すみませーん。ありがとうございましたー」
奏は、大きな声でその後ろ姿に礼を述べたが、警備員はちらとこちらを見ただけで、すぐさま院内に入って行ってしまった。
大河原先生……。だったのか……。
あの様子からして、このパンの中に毒が入っている可能性は低い。とは思うが、妙な展開のせいで、食べる気がせず、結局その日は何も食べずに寝た。