秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】
出勤直後の土下座騒動から、約十分後。
「あー、紹介しよう。彼は柊。隣町に住んでいる、歴史書の付喪神だ」
「はじめまして、柊と申します。先程は、本当にすみませんでした」
「いえ、その……お気になさらずに」
ようやく穏やかな静けさを取り戻した神田堂の居間において、菜乃華は瑞葉から青年改め柊のことを紹介されていた。
ちなみに、ようやく我に返ったらしい柊は、瑞葉の横で小さくなっている。先程の奇行は本人にとっても相当恥ずべきものだったらしい。俯きがちの顔は、赤く染まっていた。
「えっと、それで今はどんな状況なの? 柊さん、さっき自分の相棒を助けてくださいって言っていたけど」
俯く柊を気の毒に思いながら、瑞葉に訊く。
すると瑞葉は、いつもと変わらない冷静な面持ちで、土間の作業台の方を指し示した。
「言葉の通りだ。菜乃華、これは本の修復の依頼だよ」
作業台には、一冊の文庫本と何枚かの紙きれが置かれていた。
つっかけで土間に出て、本のところへ行ってみる。見たところ、紙切れは文庫本のページのようだ。相当古いものらしく、本もページも日焼けで茶色くなっていた。
ちなみに文庫本の中身は、夏目漱石の『吾輩は猫である』だった。
「これが、依頼の本? 近くに誰もいないけど、本当に付喪神なの?」
作業台にあるのは本だけで、そこに宿っている付喪神の姿はない。背後の瑞葉に問い掛けながら、作業台近くをきょろきょろと見回す。
その時だ。菜乃華の声に反応するように、文庫本が光り始めた。
「な、何!?」
「そんなに驚かなくても大丈夫だ。先日、蔡倫が同じものを見せただろう」
隣にやってきた瑞葉に言われ、光る本を恐る恐る見つめる。どうやら本から付喪神が出てくる前兆のようだ。
光はやがて本を離れ、作業台の上で一つの形を取り始める。それは、猫の形だった。大きさは菜乃華がようやく抱えられるほどだ。かなり大きな猫である。
形が定まると、光は少しずつ治まり始めた。弱まった光の向こうに、猫のブチ模様らしきものが見えてくる。光が完全に治まると、どこかぬいぐるみっぽい猫が、「な~」と姿を現した……のだが……。
「ちょっ! ま、まままま前脚が取れてる! 大変! 救急車!」
その姿を見た瞬間、菜乃華が先程の柊と同様に取り乱し始めた。
ただ、それも仕方ないことだろう。なぜなら猫の右前脚が、体を離れて転がっていたのだから。それはもう、見事にコロリンと……。
瑞葉から聞いていた、『擦りむいたから~』とかいうレベルの話ではない。最初のお客さんから大惨事だ。ぬいぐるみっぽい外見のため、前脚が取れたの姿はややコミカルにも見える。実際、血が出ているというわけでもない。だが、この状態を見て驚くなという方が無理な話であった。
「落ち着け、菜乃華。救急車なんて呼んでも、どうにもならん」
猫の怪我に狼狽える菜乃華の頭へ、瑞葉が痛くない程度の軽いチョップを入れる。突然の衝撃にびっくりしたことで、菜乃華もようやく我に返った。
「ご、ごめんなさい。ちょっと気が動転しちゃって……」
「気にするな、最初はよくあることだ。では柊、説明を頼む」
菜乃華が落ち着いたのを見て取り、瑞葉が柊へ話を振る。
「……あれは、今日の朝のことでした」
遠くを見るような目で、柊が今朝の出来事とやらを語り始めた。
事件が起こったのは、今からちょうど三時間ほど前。柊が、自分とブチ猫――名前はクシャミというようだ――の朝食を用意していた時のことらしい。
それはいいとして、『クシャミ』って飼い主の方の名前じゃなかっただろうか。『吾輩は猫である』の内容を思い出し、菜乃華が首を捻る。だが、そこはあえてツッコまないことにした。名前は人それぞれ、猫それぞれである。
ともあれ、話を戻そう。調理に集中していた柊は、足元にやってきて寝ていたクシャミの存在に気付かなかった。故に、そのクシャミの尻尾を、彼はうっかり踏んでしまったのだ。
「驚いて飛び起きたクシャミは、部屋の中を駆け回りました。そして、柱にぶつかった拍子に、背負っていた本体の文庫本を放り出してしまい……」
「床に落ちた衝撃で、本が壊れてしまったと」
菜乃華が後を引き継ぐように言うと、柊が力なく頷いた。
クシャミの本体は古い文庫本だから、力が加わった拍子に、接合が緩くなっていたページが完全に外れてしまったのだろう。文字通りの不幸な事故ということだ。
けれど、柊は全部自分の責任だと感じているらしい。暗く俯いた彼の姿は、見ている方が辛くなるほど憐れだった。
「あの、柊さん……元気を出してください。聞いた限り不幸な事故みたいですし、柊さんがそこまで責任を感じることは……」
「いえ。実はまだ、この話には続きがあるんです」
「……続き?」
菜乃華が訊き返すと、柊はクシャミの文庫本を手に取り、とあるページを開いた。
そのページは、十センチくらいに渡って痛々しく破れていた。
「実は僕、クシャミが怪我をした時も、先程のように取り乱してしまって……。その際に、クシャミの本のページを破ってしまったんです!」
「あ、あ~……」
柊が必要以上に責任を感じている理由がわかり、菜乃華が曖昧に笑った。
どうやらこの青年、事故のことよりもページを破ったことを気にしていたようだ。自分の手で相棒の本を破ってしまったのだから、さもありなん。
「おかげでほら、見てください! ページが破れたせいで、クシャミの背中がひどいことに!」
柊が、クシャミの背中を指差す。そこには確かに、五百円玉くらいの大きさのハゲができていた。前脚が取れていることに比べたら、なんとも可愛らしい怪我である。
「本体の傷が付喪神に与える影響は、様々だからな。破れたページの影響が、脱毛という形でクシャミに現れたのだろう。まあ、大きな怪我が二つにならなくて良かったというところだな」
「そうだね、瑞葉。これ以上怪我が増えていたら、あの猫さん、可哀想だもん」
作業台で丸くなっているクシャミを見て、少し胸を撫で下ろす。
ちなみにクシャミ自身は、柊ほど怪我のことを気にしていないらしい。のんびりと欠伸をしている。神様でも怪我は痛いらしいのだが、クシャミは大丈夫のようだ。何か、痛みをコントロールできる能力でも持っているのかもしれない。もしくは、ぬいぐるみのような外見が影響して、本当に痛くないのかも。
心配性で慌てん坊の柊と、のん気でのんびり屋な猫のクシャミ。なんだかおもしろいコンビだと、菜乃華は思った。
「もう一度お願いします、店主さん。どうかクシャミを助けて下さい!」
柊が、再び詰め寄るようにして菜乃華へ懇願する。
一方の菜乃華は、「えーと……」と困り気味の愛想笑いだ。猪突猛進な柊をどうにかいなしながら、瑞葉に小声で確認を取る。
「瑞葉。この依頼、受けても大丈夫?」
「ああ、もちろんだ」
瑞葉の答えは、いたってシンプルだった。つまり今回の依頼は、今の菜乃華でも十分に対処できるものであるということだ。
ならば、是非もない。自信を持って柊へ返事をした。
「わかりました。このご依頼、神田堂がお引き受けいたします!」
「あー、紹介しよう。彼は柊。隣町に住んでいる、歴史書の付喪神だ」
「はじめまして、柊と申します。先程は、本当にすみませんでした」
「いえ、その……お気になさらずに」
ようやく穏やかな静けさを取り戻した神田堂の居間において、菜乃華は瑞葉から青年改め柊のことを紹介されていた。
ちなみに、ようやく我に返ったらしい柊は、瑞葉の横で小さくなっている。先程の奇行は本人にとっても相当恥ずべきものだったらしい。俯きがちの顔は、赤く染まっていた。
「えっと、それで今はどんな状況なの? 柊さん、さっき自分の相棒を助けてくださいって言っていたけど」
俯く柊を気の毒に思いながら、瑞葉に訊く。
すると瑞葉は、いつもと変わらない冷静な面持ちで、土間の作業台の方を指し示した。
「言葉の通りだ。菜乃華、これは本の修復の依頼だよ」
作業台には、一冊の文庫本と何枚かの紙きれが置かれていた。
つっかけで土間に出て、本のところへ行ってみる。見たところ、紙切れは文庫本のページのようだ。相当古いものらしく、本もページも日焼けで茶色くなっていた。
ちなみに文庫本の中身は、夏目漱石の『吾輩は猫である』だった。
「これが、依頼の本? 近くに誰もいないけど、本当に付喪神なの?」
作業台にあるのは本だけで、そこに宿っている付喪神の姿はない。背後の瑞葉に問い掛けながら、作業台近くをきょろきょろと見回す。
その時だ。菜乃華の声に反応するように、文庫本が光り始めた。
「な、何!?」
「そんなに驚かなくても大丈夫だ。先日、蔡倫が同じものを見せただろう」
隣にやってきた瑞葉に言われ、光る本を恐る恐る見つめる。どうやら本から付喪神が出てくる前兆のようだ。
光はやがて本を離れ、作業台の上で一つの形を取り始める。それは、猫の形だった。大きさは菜乃華がようやく抱えられるほどだ。かなり大きな猫である。
形が定まると、光は少しずつ治まり始めた。弱まった光の向こうに、猫のブチ模様らしきものが見えてくる。光が完全に治まると、どこかぬいぐるみっぽい猫が、「な~」と姿を現した……のだが……。
「ちょっ! ま、まままま前脚が取れてる! 大変! 救急車!」
その姿を見た瞬間、菜乃華が先程の柊と同様に取り乱し始めた。
ただ、それも仕方ないことだろう。なぜなら猫の右前脚が、体を離れて転がっていたのだから。それはもう、見事にコロリンと……。
瑞葉から聞いていた、『擦りむいたから~』とかいうレベルの話ではない。最初のお客さんから大惨事だ。ぬいぐるみっぽい外見のため、前脚が取れたの姿はややコミカルにも見える。実際、血が出ているというわけでもない。だが、この状態を見て驚くなという方が無理な話であった。
「落ち着け、菜乃華。救急車なんて呼んでも、どうにもならん」
猫の怪我に狼狽える菜乃華の頭へ、瑞葉が痛くない程度の軽いチョップを入れる。突然の衝撃にびっくりしたことで、菜乃華もようやく我に返った。
「ご、ごめんなさい。ちょっと気が動転しちゃって……」
「気にするな、最初はよくあることだ。では柊、説明を頼む」
菜乃華が落ち着いたのを見て取り、瑞葉が柊へ話を振る。
「……あれは、今日の朝のことでした」
遠くを見るような目で、柊が今朝の出来事とやらを語り始めた。
事件が起こったのは、今からちょうど三時間ほど前。柊が、自分とブチ猫――名前はクシャミというようだ――の朝食を用意していた時のことらしい。
それはいいとして、『クシャミ』って飼い主の方の名前じゃなかっただろうか。『吾輩は猫である』の内容を思い出し、菜乃華が首を捻る。だが、そこはあえてツッコまないことにした。名前は人それぞれ、猫それぞれである。
ともあれ、話を戻そう。調理に集中していた柊は、足元にやってきて寝ていたクシャミの存在に気付かなかった。故に、そのクシャミの尻尾を、彼はうっかり踏んでしまったのだ。
「驚いて飛び起きたクシャミは、部屋の中を駆け回りました。そして、柱にぶつかった拍子に、背負っていた本体の文庫本を放り出してしまい……」
「床に落ちた衝撃で、本が壊れてしまったと」
菜乃華が後を引き継ぐように言うと、柊が力なく頷いた。
クシャミの本体は古い文庫本だから、力が加わった拍子に、接合が緩くなっていたページが完全に外れてしまったのだろう。文字通りの不幸な事故ということだ。
けれど、柊は全部自分の責任だと感じているらしい。暗く俯いた彼の姿は、見ている方が辛くなるほど憐れだった。
「あの、柊さん……元気を出してください。聞いた限り不幸な事故みたいですし、柊さんがそこまで責任を感じることは……」
「いえ。実はまだ、この話には続きがあるんです」
「……続き?」
菜乃華が訊き返すと、柊はクシャミの文庫本を手に取り、とあるページを開いた。
そのページは、十センチくらいに渡って痛々しく破れていた。
「実は僕、クシャミが怪我をした時も、先程のように取り乱してしまって……。その際に、クシャミの本のページを破ってしまったんです!」
「あ、あ~……」
柊が必要以上に責任を感じている理由がわかり、菜乃華が曖昧に笑った。
どうやらこの青年、事故のことよりもページを破ったことを気にしていたようだ。自分の手で相棒の本を破ってしまったのだから、さもありなん。
「おかげでほら、見てください! ページが破れたせいで、クシャミの背中がひどいことに!」
柊が、クシャミの背中を指差す。そこには確かに、五百円玉くらいの大きさのハゲができていた。前脚が取れていることに比べたら、なんとも可愛らしい怪我である。
「本体の傷が付喪神に与える影響は、様々だからな。破れたページの影響が、脱毛という形でクシャミに現れたのだろう。まあ、大きな怪我が二つにならなくて良かったというところだな」
「そうだね、瑞葉。これ以上怪我が増えていたら、あの猫さん、可哀想だもん」
作業台で丸くなっているクシャミを見て、少し胸を撫で下ろす。
ちなみにクシャミ自身は、柊ほど怪我のことを気にしていないらしい。のんびりと欠伸をしている。神様でも怪我は痛いらしいのだが、クシャミは大丈夫のようだ。何か、痛みをコントロールできる能力でも持っているのかもしれない。もしくは、ぬいぐるみのような外見が影響して、本当に痛くないのかも。
心配性で慌てん坊の柊と、のん気でのんびり屋な猫のクシャミ。なんだかおもしろいコンビだと、菜乃華は思った。
「もう一度お願いします、店主さん。どうかクシャミを助けて下さい!」
柊が、再び詰め寄るようにして菜乃華へ懇願する。
一方の菜乃華は、「えーと……」と困り気味の愛想笑いだ。猪突猛進な柊をどうにかいなしながら、瑞葉に小声で確認を取る。
「瑞葉。この依頼、受けても大丈夫?」
「ああ、もちろんだ」
瑞葉の答えは、いたってシンプルだった。つまり今回の依頼は、今の菜乃華でも十分に対処できるものであるということだ。
ならば、是非もない。自信を持って柊へ返事をした。
「わかりました。このご依頼、神田堂がお引き受けいたします!」