秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】
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日付は飛んで、十一月五日、日曜日。両親よりも早い朝の四時半に起きた菜乃華は、家の台所でせっせとお弁当の準備を始めていた。
「瑞葉に食べてもらうんだから、おいしいものを作らなきゃ!」
今日のお弁当で、何としても瑞葉の胃袋を掴んでみせる。気合と共に腕まくりをして、昨晩に下拵えしておいた食材などを冷蔵庫から取り出した。
今日のメニューは、おにぎり、エビフライ、鶏の唐揚げ、玉子焼き、アスパラのベーコン巻き、ポテトサラダ、彩りを与えるためのプチトマト、そして筑前煮だ。
特に筑前煮は瑞葉の好物なので、絶対に失敗できない。いや、失敗しないのは当然として、祖母のものよりおいしい筑前煮を作らなければならない。
食材を前に、調理の手順をもう一度頭の中で思い起こした。修復も料理も、大切なのは分量や手順を間違えないことだ。きちんとしたイメージのもと、食材に手を伸ばす。
その時、不意に後ろから、「朝から気合入っているわね」と声が掛かった。
「本当にもう、いつの間にかすっかり恋する乙女になっちゃって」
「お母さん! あれ、何で?」
台所の入り口に立っていたのは、母だった。菜乃華は驚きのままに壁時計を見るが、時間はまだ五時より前だ。母がいつも起きる時間は、まだ先のはずである。
「娘の恋路を応援するのは、母親の責務です。瑞葉においしいお弁当を食べてもらいたいんでしょ。揚げ物系は私の方でやってあげるから、あんたは煮物をきっちり作って、しっかりアピールしてきなさい」
「恋路って……お母さん、何で知ってるの!?」
「むしろ、今まで気付かれていないと思ってたわけ? それは、親を舐め過ぎよ。何年、あんたの母親やってると思ってんの。もう何カ月も前から、相手までバレバレよ」
あんぐりと口を開ける娘を尻目に見つつ、手早くエプロンをした母が、海老と唐揚げ用に下味をつけておいた鶏肉を手に取る。
この台所の主だけあって、動きがこなれていて機敏だ。純粋に心強い。本当なら全部自分で作りたいところだが、今は瑞葉においしいお弁当を振る舞うことが最優先なので、有り難く助力を頂戴しておくことにする。
「ちなみにあんたたち、どこまで進んでるの? もうキスくらいはした?」
「――ッ!!」
いきなりかまされた思いがけない質問に驚き、持っていたこんにゃくをつるりと落としかけた。
慌ててこんにゃくをまな板に置き、何食わぬ顔で衣の準備をしている母を睨みつける。
「何言ってんの! キスなんてしてないよ!」
「なるほど。その様子だと、告白もまだか……」
泡を食って捲し立てる娘の姿に、母がこれ見よがしにため息をついた。
「お父さんに似て、本当に奥手なんだから。我が娘ながら情けないわ。あんた、九月に倒れて神田堂に一泊していたじゃない。なんでその時に告白して決めなかったの。弱っているところを見せて誘い込めば、一発だったでしょうに」
「な! ななな……!」
「もしくは、せっかくお店で二人きりなんだから、隙を見つけて押し倒しちゃえばいいのよ。既成事実は何にも勝る武器よ。何なら、今から試してきなさい」
「お、おおお、おしおし……!」
母から繰り出されるとんでも発言のオンパレードに、菜乃華の頬が真っ赤に染まる。頭は真っ白になって、呂律が回らない。完全にオーバーヒート状態だ。
そんないっぱいいっぱいの娘を、母はにんまりと意地悪く笑って見つめている。娘の反応を楽しんでいる顔だ。
母の表情に気付いたことで、菜乃華もようやく正気を取り戻した。そして、恨みがましい目で再び母を睨みつけた。
「娘になんてこと勧めてんのよ。それが親の言うこと!?」
「親だから、可愛い娘のためを思って言ってあげてるんじゃない。いい? 相手が神様だからって、遠慮しちゃダメよ。男が狼なら、女は狩人なんだからね。私の娘なら、狙った獲物はきちんと仕留めてきなさい。私も、そうやってお父さんをゲットしたんだから」
「お母さん、お父さんに何をしたの……」
呆れ果てて、思わず頭を抱えてしまった。
菜乃華の両親は、父五十五歳、母四十五歳の年の差婚だ。一体どんな恋愛をしていたかとずっと気になっていたが、まさか母がここまでアグレッシブな肉食系だとは思わなかった。というか、こんな捕食関係のような馴れ初めなら聞きたくなかった。
そんな娘の心情なんて、なんのその。母はマイペースに唐揚げの衣の準備を始めた。
「さあさ、無駄話はこれくらいにしましょう。これだけの量、ちゃっちゃと作っていかないと、約束の時間に遅刻しちゃうわよ」
「誰のせいで手が止まったと思ってんの! お母さんのバカ!」
「ヘタレ娘にバカ呼ばわりされるのは心外ね。悔しかったら、彼氏の一人や二人、さっさと連れて来てみなさい。お赤飯炊いて待っててあげるわよ」
ああ言えば、三倍にされてこう言われる。口では敵わないと悟り、さりとて悔しさは募り、心の中で地団太を踏む。
菜乃華は母の助力を受けたことを早速後悔しながら、荒々しく鍋をコンロに掛けるのだった。
「瑞葉に食べてもらうんだから、おいしいものを作らなきゃ!」
今日のお弁当で、何としても瑞葉の胃袋を掴んでみせる。気合と共に腕まくりをして、昨晩に下拵えしておいた食材などを冷蔵庫から取り出した。
今日のメニューは、おにぎり、エビフライ、鶏の唐揚げ、玉子焼き、アスパラのベーコン巻き、ポテトサラダ、彩りを与えるためのプチトマト、そして筑前煮だ。
特に筑前煮は瑞葉の好物なので、絶対に失敗できない。いや、失敗しないのは当然として、祖母のものよりおいしい筑前煮を作らなければならない。
食材を前に、調理の手順をもう一度頭の中で思い起こした。修復も料理も、大切なのは分量や手順を間違えないことだ。きちんとしたイメージのもと、食材に手を伸ばす。
その時、不意に後ろから、「朝から気合入っているわね」と声が掛かった。
「本当にもう、いつの間にかすっかり恋する乙女になっちゃって」
「お母さん! あれ、何で?」
台所の入り口に立っていたのは、母だった。菜乃華は驚きのままに壁時計を見るが、時間はまだ五時より前だ。母がいつも起きる時間は、まだ先のはずである。
「娘の恋路を応援するのは、母親の責務です。瑞葉においしいお弁当を食べてもらいたいんでしょ。揚げ物系は私の方でやってあげるから、あんたは煮物をきっちり作って、しっかりアピールしてきなさい」
「恋路って……お母さん、何で知ってるの!?」
「むしろ、今まで気付かれていないと思ってたわけ? それは、親を舐め過ぎよ。何年、あんたの母親やってると思ってんの。もう何カ月も前から、相手までバレバレよ」
あんぐりと口を開ける娘を尻目に見つつ、手早くエプロンをした母が、海老と唐揚げ用に下味をつけておいた鶏肉を手に取る。
この台所の主だけあって、動きがこなれていて機敏だ。純粋に心強い。本当なら全部自分で作りたいところだが、今は瑞葉においしいお弁当を振る舞うことが最優先なので、有り難く助力を頂戴しておくことにする。
「ちなみにあんたたち、どこまで進んでるの? もうキスくらいはした?」
「――ッ!!」
いきなりかまされた思いがけない質問に驚き、持っていたこんにゃくをつるりと落としかけた。
慌ててこんにゃくをまな板に置き、何食わぬ顔で衣の準備をしている母を睨みつける。
「何言ってんの! キスなんてしてないよ!」
「なるほど。その様子だと、告白もまだか……」
泡を食って捲し立てる娘の姿に、母がこれ見よがしにため息をついた。
「お父さんに似て、本当に奥手なんだから。我が娘ながら情けないわ。あんた、九月に倒れて神田堂に一泊していたじゃない。なんでその時に告白して決めなかったの。弱っているところを見せて誘い込めば、一発だったでしょうに」
「な! ななな……!」
「もしくは、せっかくお店で二人きりなんだから、隙を見つけて押し倒しちゃえばいいのよ。既成事実は何にも勝る武器よ。何なら、今から試してきなさい」
「お、おおお、おしおし……!」
母から繰り出されるとんでも発言のオンパレードに、菜乃華の頬が真っ赤に染まる。頭は真っ白になって、呂律が回らない。完全にオーバーヒート状態だ。
そんないっぱいいっぱいの娘を、母はにんまりと意地悪く笑って見つめている。娘の反応を楽しんでいる顔だ。
母の表情に気付いたことで、菜乃華もようやく正気を取り戻した。そして、恨みがましい目で再び母を睨みつけた。
「娘になんてこと勧めてんのよ。それが親の言うこと!?」
「親だから、可愛い娘のためを思って言ってあげてるんじゃない。いい? 相手が神様だからって、遠慮しちゃダメよ。男が狼なら、女は狩人なんだからね。私の娘なら、狙った獲物はきちんと仕留めてきなさい。私も、そうやってお父さんをゲットしたんだから」
「お母さん、お父さんに何をしたの……」
呆れ果てて、思わず頭を抱えてしまった。
菜乃華の両親は、父五十五歳、母四十五歳の年の差婚だ。一体どんな恋愛をしていたかとずっと気になっていたが、まさか母がここまでアグレッシブな肉食系だとは思わなかった。というか、こんな捕食関係のような馴れ初めなら聞きたくなかった。
そんな娘の心情なんて、なんのその。母はマイペースに唐揚げの衣の準備を始めた。
「さあさ、無駄話はこれくらいにしましょう。これだけの量、ちゃっちゃと作っていかないと、約束の時間に遅刻しちゃうわよ」
「誰のせいで手が止まったと思ってんの! お母さんのバカ!」
「ヘタレ娘にバカ呼ばわりされるのは心外ね。悔しかったら、彼氏の一人や二人、さっさと連れて来てみなさい。お赤飯炊いて待っててあげるわよ」
ああ言えば、三倍にされてこう言われる。口では敵わないと悟り、さりとて悔しさは募り、心の中で地団太を踏む。
菜乃華は母の助力を受けたことを早速後悔しながら、荒々しく鍋をコンロに掛けるのだった。