秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】
気が付くと、菜乃華はいつの間にか神田堂の店先に立っていた。降り注ぐ夏の日差しに、菜乃華は目を眇める。
「あれ? わたし、なんでこんなところに?」
菜乃華の頭に浮かぶのは、一つの疑問だ。
自分は、どうしてここに立っているのか。その理由が、菜乃華にはまったく思い出せなかった。まるで頭の中に霧でもかかったような心地だ。
「確か、瑞葉の本を修理して、そのまま寝落ちしちゃって……」
ふと自分の口から出た言葉に目を見開き、顔を上げる。
そう。自分は、瑞葉の本を直していたのだ。そして、彼の本を直し終えたところで、限界を迎えてしまった。
あの後、どうなったんだろうか。瑞葉は助かったのか。彼の安否が気になり、菜乃華は急いで店の中へ戻ろうとする。
だが、ガラス戸に手をかけようとした菜乃華は、おかしなことに気がついた。
「何これ。わたしの手がない」
先程とは別の驚きで、目を見開く。ガラス戸を開けようとした自分の手が見えないのだ。
慌ててガラスに目を向ければ、そこには自分の姿だけ映っていない。まるで幽霊にでもなってしまったかのように、菜乃華の体は消えていた。
「これ、もしかして……」
朧げにだが憶えのある現象に、菜乃華は見えない手をおとがいに当てる。
その時、店のガラス戸が突然内側から開かれた。
『なっちゃん、そんなに走ると危ないよ』
『はーい! おばあちゃん!』
神田堂から出てきたのは、五歳くらいの小さな女の子だ。
その女の子には、見覚えがある。アルバムの写真で見た、小さい頃の菜乃華だ。
ここに至って、菜乃華は確信した。自分は今、いつぞやと同じように、明晰夢を見ているのだ。それも、おそらくは心の奥にしまい込まれてしまった、自分自身の幼い頃の記憶を……。
「もしかして、これってあの声に関係あるんじゃ……」
今の菜乃華には、こんな記憶はない。少なくとも、覚えていない。けれど、今見ている光景が夢の中だけのものとは思えない。
これまで時折思い出しかけていた、過去の記憶。何かを約束する、自分の声。
確証はない。けれど、この夢の先にその答えがあるような気がした。
『それじゃあ瑞葉、菜乃華のことをよろしく頼むよ』
『ああ、任せておけ』
考えごとにふける菜乃華の耳に、聞き覚えのある二つの声が響く。菜乃華が振り返ると、そこには瑞葉と今は亡き祖母が立っていた。
「瑞葉……。お祖母ちゃん……」
小さい菜乃華が、『おばあちゃん!』とうれしそうに駆けていく。その横で、透明な今の菜乃華は、目を潤ませていた。夢の中、過去の出来事とはいえ、元気な祖母と瑞葉の姿を目にして、涙がこみ上げてきたのだ。
店の外に出てきた祖母は、小さな菜乃華の頭をわしわしと撫でた。
『それじゃあ、お祖母ちゃんはちょっと外に出てくるからね。なっちゃんは、瑞葉と留守番していておくれ』
『わかった! いってらっしゃい!』
くすぐったそうに撫でられていた小さい自分が、満面の笑顔で頷く。昔は、こうやって祖母に頭を撫でてもらうのが好きだった。
祖母が路地の先に消えるまで見送ると、瑞葉は小さい菜乃華に手を差し出した。
『さあ、店の中でサエが帰ってくるのを待とうか』
『うん!』
小さな菜乃華は羨ましいことに瑞葉と手をつなぎ、神田堂の中へ戻っていく。
そして菜乃華も、過去の二人を追いかけて店に入った。幸いなことに、今回の明晰夢は自由に移動することができるようだ。
神田堂の中は、今も昔も変わらない。過去の自分は、奥の居間で瑞葉と麦茶を飲んでいた。にこにこしているところを見ると、小さな自分はご機嫌な様子だ。瑞葉と一緒にいるのだけで楽しいのは、今も昔も変わらないらしい。
ただ、すぐに大人しく座っていることに飽きてしまったのだろう。瑞葉が台所に立つと、過去の菜乃華は一人、作業場である土間へと降りていった。
作業台や大きな箪笥が並ぶ土間は、小さな子供にとって好奇心を刺激される場だ。過去の菜乃華は、丸椅子をよじ登って作業台の上を覗き始めた。
「ああ、もう! 何やってんの。そんなことしたら、危ないってば」
丸椅子を揺らしてはしゃぐ過去の自分を、思わず今の菜乃華が注意する。
あんなに揺らしたら、危ないことこの上ない。いつかはバランスを崩して、床に落ちてしまうだろう。
しかし、当然ながら過去の自分に声が届くはずもない。小さい菜乃華は、何も気付かずにはしゃぎ続ける。
『お?』
「――ッ! いけない!」
そしてついに、椅子がバランスを崩して倒れた。小さい菜乃華はきょとんとした顔のまま、床へ落ちていく。菜乃華が咄嗟に見えない手を伸ばすも、声と同じで過去の菜乃華に触れることはできない。
その瞬間、白い影が風のように床の上を走った。
『危ない!』
目にも留まらぬ速さで落下地点に入った瑞葉が、小さい菜乃華をしっかりと抱き留めた。
そして、菜乃華は見た。瑞葉が過去の自分をキャッチした際、彼の懐から本が零れ出たのを。その本が空中で開き、地面に落ちた瞬間、ページが小さく裂けたのを……。
『大丈夫か、菜乃華』
『うん! ありがとう、ミズハ!』
瑞葉の腕の中で、小さい菜乃華が楽しそうに笑う。
ただ、その笑顔はすぐに凍りついた。見上げた瑞葉の顔を、赤い血が伝ったからだ。
『どうしたの、ミズハ。おけがしたの?』
小さい菜乃華が、血が伝う瑞葉の頬に手を触れる。
幼心にも、瑞葉が自分の所為で怪我をしたとわかったのだろう。過去の自分は一転して涙をポロポロと零し、『ごめんね、ごめんね』と謝っている。
『気にするな、菜乃華。私は大丈夫だ。こんなのは、何でもないかすり傷だから』
泣き続ける小さな菜乃華の頭を、瑞葉がふわりと撫でた。責任を感じている過去の自分を、気遣ってくれているのだろう。瑞葉の顔には、優しい笑顔が浮かんでいる。
『それにサエが戻ってくれば、すぐに本を直してもらえる。この本が直れば、私の怪我も直るのだ。だから、もう泣くな』
懐から出したハンカチで、瑞葉は過去の菜乃華の涙を拭く。
すると突然、過去の菜乃華が勢いよく首を振った。
『や! あたしがなおす!』
『……は?』
小さな菜乃華の『なおす!』宣言に、瑞葉の目が点になった。どうやら小さい菜乃華のこの反応は、瑞葉にとっても予想外だったらしい。
しかし、言った当の本人は、どこまでも本気のようだ。小さな手をきつく握り締め、瑞葉を見上げてこう言い放った。
『あたしがやる! あたしが、ミズハのおけが、なおすの!』
精一杯、本気の思いを込めて、小さな菜乃華は瑞葉を見つめていた。子供なりに自分が何をすべきか考え、出した結論なのだろう。
必死に訴える幼い少女の姿に、瑞葉は驚きのまま目を見開く。
ただ、瑞葉はすぐに表情を和らげ、もう一度小さな菜乃華の頭を撫でた。
『……わかった。では、菜乃華に直してもらおうか』
『うん! あたし、なおす!』
喜び飛び跳ねる小さな菜乃華とともに、瑞葉は作業台に向かう。
瑞葉の手ほどきは、五歳児相手でも完璧だ。本の損傷が軽微だったこともあり、瑞葉の指導を受けた過去の自分は、難なく修復を進めていく。そして、本を直し終えると同時に、瑞葉の怪我はまるで幻のように消え去った。
『……やはり、そうであったか』
期待が確信に変わった。そんな口調で、瑞葉が呟く。
隣でそれを聞いていた菜乃華は、ようやく彼の意図を悟った。
おそらく瑞葉は、過去の菜乃華に祖母と同じ力が宿っている可能性があると考えたのだろう。だから、図らずも壊れてしまった自らの本体を、幼い菜乃華に託してみたのだ。すべては、彼自身が抱いた期待に対する答えを得るために……。
『ミズハ、おけが、なおった?』
『ああ、君のおかげだ。ありがとう、菜乃華』
えへへ、と得意げな過去の菜乃華へ、瑞葉が笑い掛ける。そのまま彼はしゃがみこみ、小さな菜乃華と目線の高さを合わせた。
「あれ? わたし、なんでこんなところに?」
菜乃華の頭に浮かぶのは、一つの疑問だ。
自分は、どうしてここに立っているのか。その理由が、菜乃華にはまったく思い出せなかった。まるで頭の中に霧でもかかったような心地だ。
「確か、瑞葉の本を修理して、そのまま寝落ちしちゃって……」
ふと自分の口から出た言葉に目を見開き、顔を上げる。
そう。自分は、瑞葉の本を直していたのだ。そして、彼の本を直し終えたところで、限界を迎えてしまった。
あの後、どうなったんだろうか。瑞葉は助かったのか。彼の安否が気になり、菜乃華は急いで店の中へ戻ろうとする。
だが、ガラス戸に手をかけようとした菜乃華は、おかしなことに気がついた。
「何これ。わたしの手がない」
先程とは別の驚きで、目を見開く。ガラス戸を開けようとした自分の手が見えないのだ。
慌ててガラスに目を向ければ、そこには自分の姿だけ映っていない。まるで幽霊にでもなってしまったかのように、菜乃華の体は消えていた。
「これ、もしかして……」
朧げにだが憶えのある現象に、菜乃華は見えない手をおとがいに当てる。
その時、店のガラス戸が突然内側から開かれた。
『なっちゃん、そんなに走ると危ないよ』
『はーい! おばあちゃん!』
神田堂から出てきたのは、五歳くらいの小さな女の子だ。
その女の子には、見覚えがある。アルバムの写真で見た、小さい頃の菜乃華だ。
ここに至って、菜乃華は確信した。自分は今、いつぞやと同じように、明晰夢を見ているのだ。それも、おそらくは心の奥にしまい込まれてしまった、自分自身の幼い頃の記憶を……。
「もしかして、これってあの声に関係あるんじゃ……」
今の菜乃華には、こんな記憶はない。少なくとも、覚えていない。けれど、今見ている光景が夢の中だけのものとは思えない。
これまで時折思い出しかけていた、過去の記憶。何かを約束する、自分の声。
確証はない。けれど、この夢の先にその答えがあるような気がした。
『それじゃあ瑞葉、菜乃華のことをよろしく頼むよ』
『ああ、任せておけ』
考えごとにふける菜乃華の耳に、聞き覚えのある二つの声が響く。菜乃華が振り返ると、そこには瑞葉と今は亡き祖母が立っていた。
「瑞葉……。お祖母ちゃん……」
小さい菜乃華が、『おばあちゃん!』とうれしそうに駆けていく。その横で、透明な今の菜乃華は、目を潤ませていた。夢の中、過去の出来事とはいえ、元気な祖母と瑞葉の姿を目にして、涙がこみ上げてきたのだ。
店の外に出てきた祖母は、小さな菜乃華の頭をわしわしと撫でた。
『それじゃあ、お祖母ちゃんはちょっと外に出てくるからね。なっちゃんは、瑞葉と留守番していておくれ』
『わかった! いってらっしゃい!』
くすぐったそうに撫でられていた小さい自分が、満面の笑顔で頷く。昔は、こうやって祖母に頭を撫でてもらうのが好きだった。
祖母が路地の先に消えるまで見送ると、瑞葉は小さい菜乃華に手を差し出した。
『さあ、店の中でサエが帰ってくるのを待とうか』
『うん!』
小さな菜乃華は羨ましいことに瑞葉と手をつなぎ、神田堂の中へ戻っていく。
そして菜乃華も、過去の二人を追いかけて店に入った。幸いなことに、今回の明晰夢は自由に移動することができるようだ。
神田堂の中は、今も昔も変わらない。過去の自分は、奥の居間で瑞葉と麦茶を飲んでいた。にこにこしているところを見ると、小さな自分はご機嫌な様子だ。瑞葉と一緒にいるのだけで楽しいのは、今も昔も変わらないらしい。
ただ、すぐに大人しく座っていることに飽きてしまったのだろう。瑞葉が台所に立つと、過去の菜乃華は一人、作業場である土間へと降りていった。
作業台や大きな箪笥が並ぶ土間は、小さな子供にとって好奇心を刺激される場だ。過去の菜乃華は、丸椅子をよじ登って作業台の上を覗き始めた。
「ああ、もう! 何やってんの。そんなことしたら、危ないってば」
丸椅子を揺らしてはしゃぐ過去の自分を、思わず今の菜乃華が注意する。
あんなに揺らしたら、危ないことこの上ない。いつかはバランスを崩して、床に落ちてしまうだろう。
しかし、当然ながら過去の自分に声が届くはずもない。小さい菜乃華は、何も気付かずにはしゃぎ続ける。
『お?』
「――ッ! いけない!」
そしてついに、椅子がバランスを崩して倒れた。小さい菜乃華はきょとんとした顔のまま、床へ落ちていく。菜乃華が咄嗟に見えない手を伸ばすも、声と同じで過去の菜乃華に触れることはできない。
その瞬間、白い影が風のように床の上を走った。
『危ない!』
目にも留まらぬ速さで落下地点に入った瑞葉が、小さい菜乃華をしっかりと抱き留めた。
そして、菜乃華は見た。瑞葉が過去の自分をキャッチした際、彼の懐から本が零れ出たのを。その本が空中で開き、地面に落ちた瞬間、ページが小さく裂けたのを……。
『大丈夫か、菜乃華』
『うん! ありがとう、ミズハ!』
瑞葉の腕の中で、小さい菜乃華が楽しそうに笑う。
ただ、その笑顔はすぐに凍りついた。見上げた瑞葉の顔を、赤い血が伝ったからだ。
『どうしたの、ミズハ。おけがしたの?』
小さい菜乃華が、血が伝う瑞葉の頬に手を触れる。
幼心にも、瑞葉が自分の所為で怪我をしたとわかったのだろう。過去の自分は一転して涙をポロポロと零し、『ごめんね、ごめんね』と謝っている。
『気にするな、菜乃華。私は大丈夫だ。こんなのは、何でもないかすり傷だから』
泣き続ける小さな菜乃華の頭を、瑞葉がふわりと撫でた。責任を感じている過去の自分を、気遣ってくれているのだろう。瑞葉の顔には、優しい笑顔が浮かんでいる。
『それにサエが戻ってくれば、すぐに本を直してもらえる。この本が直れば、私の怪我も直るのだ。だから、もう泣くな』
懐から出したハンカチで、瑞葉は過去の菜乃華の涙を拭く。
すると突然、過去の菜乃華が勢いよく首を振った。
『や! あたしがなおす!』
『……は?』
小さな菜乃華の『なおす!』宣言に、瑞葉の目が点になった。どうやら小さい菜乃華のこの反応は、瑞葉にとっても予想外だったらしい。
しかし、言った当の本人は、どこまでも本気のようだ。小さな手をきつく握り締め、瑞葉を見上げてこう言い放った。
『あたしがやる! あたしが、ミズハのおけが、なおすの!』
精一杯、本気の思いを込めて、小さな菜乃華は瑞葉を見つめていた。子供なりに自分が何をすべきか考え、出した結論なのだろう。
必死に訴える幼い少女の姿に、瑞葉は驚きのまま目を見開く。
ただ、瑞葉はすぐに表情を和らげ、もう一度小さな菜乃華の頭を撫でた。
『……わかった。では、菜乃華に直してもらおうか』
『うん! あたし、なおす!』
喜び飛び跳ねる小さな菜乃華とともに、瑞葉は作業台に向かう。
瑞葉の手ほどきは、五歳児相手でも完璧だ。本の損傷が軽微だったこともあり、瑞葉の指導を受けた過去の自分は、難なく修復を進めていく。そして、本を直し終えると同時に、瑞葉の怪我はまるで幻のように消え去った。
『……やはり、そうであったか』
期待が確信に変わった。そんな口調で、瑞葉が呟く。
隣でそれを聞いていた菜乃華は、ようやく彼の意図を悟った。
おそらく瑞葉は、過去の菜乃華に祖母と同じ力が宿っている可能性があると考えたのだろう。だから、図らずも壊れてしまった自らの本体を、幼い菜乃華に託してみたのだ。すべては、彼自身が抱いた期待に対する答えを得るために……。
『ミズハ、おけが、なおった?』
『ああ、君のおかげだ。ありがとう、菜乃華』
えへへ、と得意げな過去の菜乃華へ、瑞葉が笑い掛ける。そのまま彼はしゃがみこみ、小さな菜乃華と目線の高さを合わせた。