毛布の上で溺れる
壁掛け時計が不意に時を知らせる。
11回鐘が鳴って、わたしは絶望した。
彼はもう帰ってこないかもしれない。
わたしの掌の中から、小さな瓶が転げ落ちて、ベッドに小さな染みを作り出した。
むせ返るほどに香る、彼の匂い。
わたしは彼の匂いに溺れていく。
彼が見ていた世界がいまたしかに壊れてしまった。わたしが壊してしまった。
無力を嘆くわたしには、大切なものしか壊せない。守る事なんて出来ない。
彼が居なければ、彼にしか何かを創り出すことは出来ないのに。
なのに、この部屋には、わたししか居ない。
彼は帰ってこない。
重荷になるときは、海に捨ててと言ったのに。
ただ壊れるだけならば、もういっそ全部壊れちゃえばいい。
わたしは、転がっていた小瓶を握ると、水槽の前に這っていった。
小さな水槽の中に彼が創った世界がある。
澄み切った淡水。一面に敷き詰められた砂利。
どこからか拾ってきた流木。青々と葉を伸ばす名前も知らない水草。
小さな二匹の魚。気泡を吐き出す模造の岩。
全て彼が選んできたもの、彼が時間を掛けてその手で組み上げてきたものだ。
たった二匹のための、人工の楽園。
わたしと彼を模した二匹の、小さな楽園。
彼は帰ってこない。
わたしの握っていた小瓶は、ちゃぽんと微かに水面を鳴らして、砂利の上に落ちていった。
瓶の中に残っていた香水が、揺らめきながら水槽の中に溶けだしていく。
彼の創った世界が、少しずつ壊れていく。
水槽に溶け込んだ香水は彼の世界を蝕んで、魚たちを苦しめる。
魚たちはぐるぐると回りながら、水面近くに上がっている。
時折口を出して苦しそうにしている。
彼らはこれで死ぬのかもしれない。