雪の果てに、催花雨は告ぐ。
翌朝、いつも通りに起きた私は、いつも通りに支度をして家を出た。
学校へ行く途中にあるコンビニに寄って、ホイップクリームが入っているパンを義務的に齧りながら、空を泳いでいる雲を眺めて。
いつもと何一つ変わらない日常を繰り返すのだと思いながら、登校した矢先で。

「………え…」

繰り返されるはずの“いつも”の日常が、そこにはなかった。

「…先生?村井先生…?」

朝の8時40分。
いつもならとっくに出勤しているはずの先生の姿がない。
寝坊なのかと思い、先生の私物である保健室の合鍵を置く定位置を見ても、そこに鍵はなかった。
つまり、今日保健室を開けたのは村井先生ではないということ。

「…休みなの…?」

そう呟いても、答えてくれる人は誰もいない。
唯一私を温かく迎えてくれた、先生もいない。
それじゃあ私は、何のためにここに来たというのか。
出席日数のため? 先生のため?自分の、ため?
保健室の入り口に立ち尽くしたまま、思案の波に呑まれた私は、床に吸い込まれるように座り込んだ。
そうしてゆっくりと深呼吸をしていれば、授業開始のチャイムが鳴り始めて。
今日はもう帰ろう、と立ち上がった時、真後ろに人が居る気配がした。
弾(はじ)かれたように振り向けば、そこには見知らぬ男子生徒が立っていて。

「―――村井先生なら、急な出張で今週はいないよ」

男の子にしては、少し高めの声。低いけれど、深いと言った方が近い声色。
ワイシャツの袖から覗く手先は細くて白く、ピアノでも弾いてるんじゃないかって思える。
恐る恐る顔を上げ、声の主の姿を再確認しようと、瞬きを繰り返していれば。驚くほど冷たい双眸に、立ち竦んでいる私の姿が映っていた。

「今の、聞いてた?」

「え…は、はい…」

「そう。なら、早く入ってよ。時間の無駄」

入るって、保健室に? 今の今まで、私は帰る気だったのだけれど。
入ろうか入らないか迷っていれば、重苦しいため息がこぼされた。

「早くしてくれない?俺、アンタみたいに暇じゃないんだけど」

青年のその一言に、私の中の何かが切れた。
手に持っていた鞄を再び落とし、仁王立ちをして私を見下ろしている青年へと向き直る。

「暇って、なに?」

「は?」

「だから、暇って何?そう訊いているんだけど」

さっきの一言に腹を立てた私は、声を荒げてそう尋ねた。
彼は私の何を知って、そんなことを言っているのか。
彼とは今この瞬間が初対面だから、私の顔も名前も、事情も知らないと思うのだ。
そんな人に、暇人呼ばわりされる筋合いはない。

「確かに私は普通じゃないよ。普通になれなくて、普通を求めている親を失望させてる」

「…………」

「でも、なりたくてこうなったわけじゃない…!普通になりたいのに。普通であろうとしているのに。何も知らないくせに知ったような口を利かないでっ…!」

胸の内から溢れてきたのは、あの日からずっと誰にも言えなかった本音。
村井先生にも言えなかった、本心。
早口で捲し立てるように、目の前にいる青年にぶつけた私はハッと我に返った。
今、とんでもないことを言ってしまった気がする。
何か言わなきゃ、と口を開いたけれど、何の言葉も出てこなくて。
自分の世界に閉じこもるように、顔を俯かせた。

外の世界では授業の時間である今、中でも外でもない保健室の入り口は、すべてから切り離されたような静けさに満ちている。

私の心も同様に、水が逆流するような感情はもうどこかに消え去っていた。

だからと言って、今この瞬間をどうやって過ごせばいいのか分からない。
唇を噛んで、静寂に耐えていた。

「…ごめん」

ふと、そんな声が落とされた。
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