雪の果てに、催花雨は告ぐ。
「―――違う。鎌倉幕府が開かれたのは、1192(イイクニ)じゃないよ」
「え…?」
勉強を開始して30分ほど経った頃。
学校の先生と変わらない要領で私に授業をし始めた彼は、私がノートに書いた回答を見て、ふとそんなことを言った。
「どうして?私はイイクニ作ろう鎌倉幕府って、習ったよ?」
「それは、俺たちが中学生までの話。近年の教科書は1185年って書かれてる」
どうして?と訊き返した私に、彼は嫌な素振り一つせずに口を開いた。
てっきりまた悪態を吐かれると思っていた私は、予想外の反応に目をぱちくりとさせる。
「……俺の顔に何かついてる?」
「な、ないよ」
「そう。なら見ないで、教科書見て」
相変わらず刺々しい態度だが、分からないことがある度、その都度丁寧に教えてくれたから、そこまで酷い人じゃないと思う。
保健室登校の女の勉強をみているということは、優しいのかな…?
「ねえ……やる気、ある?」
前言撤回。優しくない、鬼だった。
「1192年。イイクニって覚えたこの年は、正確に言うと、頼朝が征夷大将軍に就任した年」
「そうなの?」
「そう。大体、幕府っていうのは、開こうと思って開くものじゃないんだよ」
不思議だな。日本史ってあまり好きじゃないけれど、彼の説明を聞いていると、その先が気になってしまう。
どんなことをしたのかな。どんな想いで生きてきたのかなって、普通の高校生が考えないようなことばかりを考えてしまうの。
「―――ちなみに、あの有名な頼朝の肖像画も、今じゃ否定されているから。あれは足利尊氏の弟の直義の肖像画だっていう説が有力で―――ほら、教科書には『※伝源頼朝像』って書いてる」
彼はもっと、と食いついてくる私を馬鹿になんてせずに、答えられることはすべて答えてくれた。
何百年も昔の、遠い、遠い日々を生きていた人たちのこと。
過去のひとたちのことを知って、どうするんだろう。
そう思っていた私だけれど、何気ない一文や用語の意味を知るのはなんだか楽しかった。
そんな私を見て、彼は満足そうな表情をしていた。
それから、数学、古典、英語を教えてもらって。
昼休みを告げる鐘――私にとっては下校時刻のチャイムが鳴り響いた時。
いつも通りに帰り支度をし始めた私に、彼は不思議そうな目を向けてくる。
それはそうだ。昼休みに帰ろうとしているんだから。
「…まだ、昼だけど。帰るの?」
「うん」
「いつも、この時間?」
「そうだよ」
いつも、か。
私にとってはこれが当たり前で、普通のことだけれど。
普通の人である彼にとっては、変なことなんだよね。
「そう…」
彼はこれ以上私に踏み込むつもりはないらしい。
帰り支度をしている私をジッと見つめていた。
ドアノブに手を掛けた時、無言で去るのもどうかと思った私は、おずおずと後ろを振り返った。
大きく息を吸い込んで、声を絞り出す。
「……えっと、さよなら」
彼は一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐに笑みを浮かべた。
「うん。…また、明日」